持っていたものではなく、与えられたものだった。知っていたことではなく、教えられたことだった。生きているのではなく、生かされていることに気づいた。元気なのではなく、日々健康が与えられていた。
裕福なのではなく、満たしてくださるお方がいた。助けてあげるのではなく、先に助けられていた。私が高い所から祈ってあげる前に、私が低い時、誰かに祈られていた。努力して手にした幸せではなく、備えられた恵みだった。
謙遜なのではなく、へりくだることを学んだにすぎない。偶然ではなく、すべては愛してくださる主の導きだった。私が何かを得ようとするたびに、神は何かを犠牲にされた。私から歩み寄ったのではなく、主のほうから走り寄って来られたからだ。私が感謝をささげる前に、神のほうから「会いたかった」と言ってくださった。
私が「ごめんなさい」と謝る前に、神は「待っていたよ」と言ってくださった。「私はこんなに泥だらけなのに…」と声を振るわせた時、神はその言葉を聞かず、とびっきりの笑顔と、まるで子供のようにはしゃぎながら御使いたちにこう命じられた。
「急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」(ルカの福音書15章22節~24節)
私は、愛したのではなく、愛されていた。
ーある牧師の記録よりー