ー最上のものが備えられているー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。」

申命記18章1-8節

 

不公平、これはどこの世界にも感じる感情。ある人にとっては優越感に感じても、逆に劣等感に苛まされる人もいます。これを仕方ないことと言い放つ人もいる。でもそうなのでしょうか。鳥や野の花さえ養い、着飾らせてくださる神様がどうしてあなたを見捨てることがあるでしょうか。神様は最善をいつも備えてくださっている。イエス様の命さえ惜しまなかった神様が。私たちは神様が備えてくださっている一日一日に感謝し、歩もうではありませんか。それは神様が与えてくださった日だから、命だから。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。18章では、祭司と呼ばれる神様と人との仲介役、生贄を捧げたりする人のことと、神様から御言葉を預かり語る預言者、偽物と本物の預言者について語られていきます。↑はまず祭司についてです。分は祭司じゃないから関係ない、と思う方もいるかも知れませんが、私たちと神様の関係に直結している話なのです。それは後半で見ます。

 

モーセは神様に導かれ、「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である」と語ります。これはレビ記などでも散々見てきたことであり、第2世代になっても変わらない「約束」です。

 

他の部族には相続地は与えられます。ヨルダン川東に、戦いの後戻り、住み着きたいと行っていた部族にさえ与えられるのに、レビ族には与えられません。それは不公平なのでは?神様に仕えているのだからもっと良いところが与えられても良いのでは?と思いたくなりますが、実はここにこそ落とし穴があるのです。

 

神様はこれまで語られてきたとおり、モーセを通して彼らに訴えるのは変わらず、「主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である」ということなのです意味がわからない、と思うかもしれません、神様が相続地だなんて。もちろん、各部族の中にレビ族の放牧地のようなところは置かれます、以前見た逃れの町も置かれます。しかし、神様が相続地って?

 

それは神様が衣食住含め、すべて養われる、ということです。もちろん神様は他の部族も養われますよ?しかし彼らが不公平な扱いを受けるというわけではなく、むしろ「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。」と語られている通り、神様は実は他の部族ががたずさえてくる、主へのいけにえの一部を食べることが赦されるのです。しかも、これを見ると、いけにえの肉の上質の部分、またぶどう酒や油の初物、羊の毛の初物など、上等な部分が割り当てられていたのです。

 

もちろん、神様に捧げられて、そこから、ですが。そう、神様ご自身が相続地、ということはただ神様が一緒にいるよ、というだけではなく、私たちが神様に繋がっている時、私たちは神様からの極上の愛、御心を受けるのです。

 

イエス様の12弟子の一人、ペテロは晩年、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』のであって、『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と手紙で書き送ります。

 

私たちはイエス様の十字架による贖い、救いを信じ受け入れる、罪を悔い改め立ち返るその時、私たちは、王である祭司、聖なる国民、神様の所有とされるのです。まさに↑の祭司についての規定のとおりです。神様の家族・子・民とされる、何という幸いでしょう。イエス様のいのちを持ってまで取り戻してくださった、そのあなたの内に神様は極上の御心を現して下さる。

 

それは時に世の価値観で見たらなんでこんなことが?ということを感じる時があるかもしれません。しかし、イエス様を生贄として私達の身代わりに捧げられた、この最上の生贄、イエス様の命から分け与えられ、受けたものはいかばかりでしょう。イエス様のいのちを持って分け与えられた命、ここからさらにあなたが仕えていくなら、「もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである」と語られているように、あなただけではなく、あなたという町から外へ、その恵みが溢れ流れていくのです。そして、その分け前を他の人もいただくことで、神様の御心が成し遂げられていくのです。

 

私たちは時になんでこんなことが?と思うことがあるかもしれませんが、しかし私達はイエス様の命をもって愛された十字架による救い、生贄となられ割かれた肉をすでに頂いているのです。これほどの最上のものがあなたに備えられているのです。あなたはこれを受け取っているでしょうか。新しく頂いた命を、この程度、と思わず、最上と思っているでしょうか?自分で最上にするのではなく、神様が最上のあなたへと導き、変えていって下さる。

 

レビ人は受けるだけではなく、受けたものから神様にやはり10分の1を捧げたように(他の部族のように)、私たちは神様に自身を委ねようではありませんか。愛を受けたから、棚から牡丹餅が落ちてくるのを待つのではなく、神様に大いに信頼し、歩もうではありませんか。ペテロも先程引用した手紙の続きに「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」と書き送っています。神様は今も憐れみを注がれ続けている。イエス様にあってあわれみを注がれ続けているこの愛に生かされ、生きようではありませんか。あなたは神様に愛されたものなのだから。