「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、主の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行なわれたのなら、あなたは、この悪事を行なった男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい。もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、ただちに、あなたの神、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい。彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。」
申命記17章1-13節
物事を正しく判断するのは、非常に難しいものがあります。自分のこれまでの経験や知識を持って判断することが大半ですが、しかしそれが絶対に正しいとは限りません。また、色眼鏡で見てしまうこともあります。だからこそ、私たちは全てを造られた、また今も保持し、導かれる神様に信頼し、委ね、歩もうではありませんか。神様はいつもあなたが求め帰ってくることを待っているから。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。17章では正しく判断すること、そしてやがて彼らの中に王を建てたいという人が出てきたときのための指針などが語られていきます。
もーせは神様に導かれ、「悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである」とまた語り続けます。その後の裁判、さばきについてと繋がりが見られないように一見見えますが、実はそうではないのです。まあ前回のところとも繋がっているのですが、神様はどこか欠損している生贄はだめ、と単純に言っているのではなく、むしろ神様は私たちを世界の基の置かれる前からイエス様にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとしてくださっている、そのような祝福の関係に招かれているのです。だからこそ、私たちは疑いや、試すような傷をつけた関係ではなく、純粋に神様を求める、その中で神様が御心をあなたのうちに豊かに現してくださるのです。
その上で、17章の王制についての話が始まっていきます。まず、神様に導かれ、モーセは「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、主の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行なわれたのなら、あなたは、この悪事を行なった男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい」と続けて語ります。
死刑については何度か触れていますが、そうならないように神様は予め語られているのと同時に、そうならないように神様が守ってくださっているのだから、神様に思い煩いを委ね、任せようね、という思いが語られているのです。それこそ、私達が傷のないものへ、神様の家族・子として聖められていくことを予め語られているのです。
この制度を定められたのは神様ですが、それゆえにきちんと調べるようにおっしゃられているのです。例えば、誰かを陥れるために嘘の証言をしていないか、複数の証人によってよく調べるようになっています。まあ、イエス様を十字架にかけた律法学者、パリサイ人(要するに宗教家)たちは、嘘の証言人をたて、あげく、よく調べもせずに十字架にかけたのです。律法に通じていたにもかかわらず、自分たちの保身という傷のある心を持ってイエス様を見、裁判を行ったのです。
しかし、↑の一番最初の言葉で見たように、傷があるから欠陥品、それはもう終わっている、とかそういうわけではなく、むしろ悔い改めの機会、回復の機会を神様は与えてくださる。ここまでの旅路を守られた神様が、これからも傷のない聖い生きた関係を彼らと、また私たちと結んで下さる。他の四象などを神だのと言う必要がないほど神様は正しく治め、また守られるのです。だから、見るべき方向をきちんと見るよう訴えるわけです。
神様の願いは、御子イエス様を信じる人が、一人として「滅びることなく」永遠の命を持つこと、だから、神様は私たちの心の内を探り、心を知ってくださり、つくりかえて下さる。癒やして下さる。だから私たちはこの次の箇所に続いていく王制について語られる前に、神様が私たちを守ってくださっていることを覚え、愛してくださっていることを覚え、死んだ関係ではなく、傷のない命の関係に立ち返ることを願い、今約束の地に入る前に彼らに語られている、私たちにも語られているのです。
神様は「悪」、というよりも「罪」を取り除いた、思い煩いを取り除いた生きた関係を彼らと、また私たちと結びたいからこそ、ここで語られているのです。死ではなく、いのちをあなたが得ること、命ある神様との関係に生きることを願っておられるからこそ、予め語られているのです。それでも傷、思い悩みがあるなら、「さばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい」と語られている通り、神様に相談しよう。神様が正しく判決をしてくださる。というよりも導いて下さるから。不用品だから適当に、とか処分しようとは考えず、むしろ神様は私達を癒やしてくださるのです。
私達の罪・傷、それら一切を癒やすため、赦すため、私達の身代わりに十字架にイエス様はかかられました。どんな不当な裁判を受けようとも、もうやめた、と天に変えることなく最後まで、私たちを死ではなく命に導くため、従事への道を辞めることなく死にまで従われました。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、傷のない、生きた神様との関係、神様の家族・子として迎え入れてくださるのです。
「裁きつかさ」と言うと怖そうなイメージがありますが、正しくすべ治めたもう、命をかけて愛されたイエス様が、あなたを導かれ、またその恵みを溢れ流れさせてくださるのです。罪によって傷ものになっていた私たちをまず愛され、愛を実行された、このイエス様があなたを導かれる。私たちは疑って、欠陥品と思うのではなく、イエス様の命がけの愛、ご計画に信頼し、委ね、歩もうではありませんか。