「あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。もし、それに欠陥があれば、足がなえたり盲目であったり、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとしてささげてはならない。あなたの町囲みのうちでそれを食べなければならない。汚れた人もきよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、その血を食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。」
申命記15章19-23節
昨日の投稿で、我が子を目に入れても痛いか痛くないか、という話題を少し分かち合いましたが、やはりそれでも子供は可愛いものです。多少やんちゃがすぎることもありますが。そうして大切に育てながら、家庭が出来上がっていくわけです。でも、やがては成長していきますし、命は神様から与えられるものですから、神様の知恵、助けなしには本当の意味での生きた家庭にはなかなかなれない。知恵、知識、様々なことが必要なのは子供のいるご夫妻ならおわかりかと思います。そう、神様はご自身のみもとに引き寄せ、養い、また導いてくださる。神様の家族として迎え入れたい。本当にいのちある関係へと招きたいのです。あなたはこの神様の招きにどう応答するでしょうか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。この章では約束の地に入っていく上で、幸せに生きることを願いことごとく語られていきますが、↑では負債の免除、奴隷の解放に続けて、初子を捧げる(動物)規定について語られていきます。
モーセは神様に導かれ、なお「あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない」と続けて語ります。初子、長子や一番最初に生まれた子を指しますが、ここでは動物の場合について触れられています。それは日本的に言えば、人であれば跡継ぎに当たりますし、最初に生まれた子は跡継ぎ云々に関わらず最初に与えられた喜び、祝福です。それは動物を飼っている方であっても同じ思いでしょう、動物の初子が大切に感じるのは。
それにしても、なぜ神様は初子を捧げる事を求めたのでしょうね。少し思い返してみますと、イスラエルの父祖となるアブラハム、彼が100歳になった時に神様から約束されていた子、イサクが生まれたのですが、イサクがある程度年をとった時(青年くらいでしょうか)、神様はイサクを全焼の生贄として捧げるように命じます。神様、何ということを、と思うところですが、アブラハムは苦悩しつつも、指定された場所にイサクとともに登っていき、イサクを捧げることにしました。
そんなのはカルトじゃないか、と思いたくなるところですが、そうではなかったのです。アブラハムは途中まで一緒についていた従者に「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と告げます。それは、もしアブラハム外柵と一緒に帰らず一人で帰ってきたら、アブラハムの信用は失墜どころか、息子に手をかけた、と言われてもおかしくない。しかし、アブラハムはそれでも、生贄がないことに疑問を持つイサクに「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と告げたように神様が必ず何かを備えて下さる、と信じ登っていったのです。
そしていよいよイサクを捧げようとする時、神様は彼の手を止め「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」と告げ、確かに神様は生贄を用意しておられたのでした。いきなり出現する、などということはありません。神様が最初から用意してくださっていたのです。そしてアブラハムがこの生贄を受け取りに来ること、神様の祝福を受け取りに来ることを願っておられたのです。
さらに、アブラハムに神様は「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」と告げました。
そう、神様は惜しみなく神様に自身を委ねる中に神様の祝福を増し加えてくださる、その大いなる御心を現してくださる。神様はすでに用意されている、それを受け取るかどうかなのです。↑で「主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない」と生贄を捧げた後について語られていますが、神様は最高のところへ招かれている。一緒に食事をする、家族として招かれているのです。一緒にこの最高の恵みを味わおう、と。神様が受け取り、これを祝福され、私たちの内に大いに増やされ、恵みで、御心で満たしてくださるのです。
2万人近くの人を、イエス様はたった5つのパンと2匹の魚を受け取り、祝福され、これをちぎり配ったことで満腹にさせ、しかも、それ以上に残り物を集めてたら増えていた(12のかごにいっぱいになっていた)ということを考えましても、神様は私たちの常識のあるもので満たされるのではなく、神様のうちにある、備えられた最高の恵みをあなたにも分かち合いたいのです。
じゃあなんで「もし、それに欠陥があれば、足がなえたり盲目であったり、何でもひどい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとしてささげてはならない」と仰られるのか。いや、むしろイエス様はそんな傷ついた心や色んな事を抱えているあなたを受け入れ、傷のないものへと変えてくださるのです。
パウロという1世紀に伝道していた人は、手紙に「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」と書き送ります。
世界の基が置かれる前から、あなたを傷のない者に本来したかったのです。しかし私達は神様から離れ、自分の価値の中で生き、そこに自身を委ねてしまい、結果傷ついてしまった。しかし、神様は本来あるべき祝福をあなたに注ぎたい、御心を、大いなる力をあなたの内に表すべく、あなたの罪の身代わりに、あなたの思い煩いも傷も、一切を背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、同じイエス様の復活の恵みに与らせていただき、傷のない、新しいあなた、本来神様がイメージされていた最高のあなたへと回復、作り変える、新しく生まれ変わらせてくださるのです。そして神様の祝宴へと、招かれ、共に神様の恵みを食することが赦されるのです。
アブラハムを招いた先に用意されていた恵みのように、あなたがどんな状況であろうと、神様に信頼し、近づかせていただく時、私たちはこのイエス様の命にあって備えられる恵みをいただけるのです。神様は預言者イザヤを通して「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない」と約束されました。私たちはこの前味をすでに備えられているのです。この神様が喜び楽しめ、と仰られる御心を喜び歩もうではありませんか。