ー愛があなたのうちを占めるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。あなたは心に邪念をいだき、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」

申命記15章1-11節

 

喜・怒・哀・楽、という表現がありますが、これらの感情は決して完全なものではありませんね。波がある、と言ったほうがいいでしょうか。パウロという人も、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」と勧めていますし、いつも喜び続ける、ということは難しい。悲しむことが悪いことではありません。しかし、これらを神様がご自身の愛をもって包み、支えて下さる。神様が開放して下さり、喜びへと変えて下さる。私たちはこの神様の完全な愛に生かされ歩もうではありませんか。神様の完全な愛、御心に導かれ。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。この章では約束の地に入っていく上で、幸せに生きることを願いことごとく語られていきますが、↑では負債の免除についての話になります。

 

日本でも何年以上返還を求めないと免除、となる法律がありますが、だからといって↑もそうですが、逃げ得にして良い、逃げれば良い、というわけではありません。少し↑で神様に導かれモーセが語っているところを見てみますと、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない」とあります。

 

7年間の猶予が与えられています。神様はこれまで荒野での生活のように彼らを、私たちをどんなときであろうと養ってくださります。十戒の中で貪ってはならない(貪らないだろう)というものがありますが、裏を返せば神様が必要を十分に満たして下さる、ということです。7年間の間に、神様は十分なほどに彼らの必要を満たしてくださるのです。だから、そんな免責規定があるなら、払わなければいい、というわけではありません。そこに愛はあるか。むしろ貸し手側に不利益を被らせる形となりますよね。

 

ただ、何らかの理由で(最近でしたら災害とかをイメージするとわかりやすいかもしれません。もしくは病気や入院で働けなくなるなど)支払えない場合も出てくる、その時はどこかの借金取り見たく取り立てをしないようにね、と。そうして兄弟たちの間で(自分たちの間で)神様は貧しさがないように支え合う、助け合うことを願われているのです。そもそも、私達は神様が作られた世界に生かされ、また何も持たずに生まれてきたのに、これは私のものだ、とするのも土台無理な話です。じゃあ貸し手は?「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される」と約束されています。

 

神様は前の章でも分かち合いましたが、祝福されている、必要を満たしてくださっているのです。神様を求める人を祝福されるのです。12弟子の一人ヨハネという人は晩年、聖霊様に導かれ、手紙に「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」と、また「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」と書き送っています。

 

↑の「貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない」という言葉とも一致しますね。むしろ、この箇所ではお金の問題ですが、恨み言とか、そういうものが私たちのうちを支配するのではなく、赦し、神様の愛が私たちのうちを占めることを願われているのです。その内に神様もす回れ、神様が助けてくださります。あなたを。貧しくとも豊かだと言えるように、弱くとも強いと言えるように、悲しくとも喜べるように。

 

↑の7年の借金免除の話はそのまま、ですが、それ以上に神様はあなたの内にすべての必要を満たしてくださる、神様の愛が私達を覆ってくださっているということを忘れてはいけません。イエス様は「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。…そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と仰られました。

 

すべてを支えてくださるのは神様です。神様がその御手を開き、私たちを招き入れてくださっているのです。私達が神様から離れ好き勝手にして生きていたにもかかわらず、それでも私達の罪の免除のため、驚くべきことに御子イエス様を私たちの身代りに十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目に蘇らせてくださったことによって、このイエス差魔の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を免責して下さり、自由に、新しい神様の家族として招き入れてくださったのです。ここに本当の神様の免責がある。愛がある。

 

この愛があなたのうちを占め、全うされるのです。もちろんなかなかうまく行かないのが人間関係かもしれません。借金ではなくとも恨み言のやり取りもあるかもしれません。しかし、神様の愛が全うされることを祈ろうではありませんか。神様はあなたにその御手を開かれ、招き入れ、神様のことしてくださった、その愛があなたを覆い、心の一新、というよりも全てが神様のみ心にあって驚くべき解放、御業がなされ、神様の愛があふれることを祈り求めようではありませんか。神様の愛にこそ完全があるのですから。