ー惑わすもの3:調べ、探り、よく問いただすー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、『さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう』と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。この聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。」

申命記13章12-18節

 

ここ最近に始まったわけではありませんが、近年特に特殊詐欺が目立ってきていますよね。彼らは品を変えてあれやこれや手を尽くしてきます。イタチごっこのようになっていますね。自分だけは大丈夫、と思う人ほど引っかかってしまう。もちろんブラックリスト的なものが回っているという理由もあるでしょうけど。いずれにしても、よく調べ、探り、問いただす、これが大事ですね。でもそれには基準が必要ですよね。私たちの歩みにしたってそうです。神様は私たちの幸せ、神様の恵みで満たされた本当の幸せに生きる、生きたものとなることを何より願われています。私たちを導かれます。誘うのではなく、養い導かれる。私たちはこの神様の声に導かれ、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。この章では約束の地に入っていく上で、この章では具体的な誘惑、惑わしについて語られます。これまでは偽預言者や近親の者から来る誘惑について触れてきましたが、ここでは邪な者が誘ってくる問題について触れられています。

 

モーセは神様に導かれ、なお「もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、『さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう』と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない」と続けて語ります。

 

邪なもの、というと最近では序論で挙げたような特殊詐欺がまず頭に浮かびますが、最初は昨日取り上げさせていただいたラブシャワーのように、優しく近づいてくるのです。そしてそれがだんだんひどい方向に向かっていきます。小さなものが積み重なって気がついたら取り返しがつかないくらいに膨れ上がるのです。

 

ノアの箱船、もとい神様が起こされた大洪水の出来事を覚えているでしょうか。聖書の記録の中で(創世記を最終的にまとめたのはモーセですから、余計にこの時の事を思い出し、注意喚起をしたのかもしれません)「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。』」とその原因に触れています。

 

アベルとカインによる人類初の殺人事件もあった、でもその時、一からやり直そうとするのではなく、むしろカインに神様は悔い改めの機会を与えてくださった。そして復讐者から守られるように神様は助けてくださったのです。しかし、この時はあまりにひどく、人間を造ったことを悔やみ、心を痛めるほどその邪な様子は目に余るものでした。ソドムとゴモラの街の時もそうですが。

 

「増大」とあるように、これくらい大丈夫でしょう、という誘いが徐々に神様との関係を崩していき、↑で「もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない」と宣言されるほどに、本来神様が彼らに、私たちに与えようとしてくださっている約束の地・真の命を失わせてしまうのです。

 

実際、後の古代イスラエル王国(約束の地に到着して数百年後に建国)は、自分を誇示し王国は分裂、分裂した先で異教の神々を持ち込まれ、彼らによって神様観がわからなくなり、多くの人が道に迷い、最後は北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に、南ユダ王国はバビロン帝国に捕囚されていくのです(これは歴史でもはっきりと記されていますね)。

 

ただだからといって仙人とかそういう世捨て人のように生活をしなさい、他と関わってはいけません、というわけではありません。それだったら、これまで見てきた律法が全部覆されてしまいますし、神の御子イエス様が人となって生まれてきた意味もなくなります。むしろ、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と律法で、またイエス様ご自身も大事なこととして語られています。

 

じゃあどうしろというの?という話ですが、パウロという1世紀に伝道をしていた、何度も迫害に愛、殺されそうになり、囚えられていた人が、それにも関わらず「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と書き残しています。

 

迫害に合うからこの世と調子を合わせるのではなく、それが本当に正しいのか、「調べ、探り、よく問いただ」す必要があるのです。その基準は?イエス様です。イエス様は仕えられました。何があっても。騙されないため、ということもありますが、私たちが何かを調べる、ということも大事、ですが、イエス様は私たちがあう様々な誘惑を同じように受けられ、勝利されました。そのイエス様に、私たちの足を、行く道を導いていただくよう祈るのです。

 

ダビデという古代イスラエル王国2代目の王は「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と歌っています。私たちはこれくらいいい、と思う日々、道、命を神様は大切にされているからこそ、とこしえの道に導きたいのです。

 

ですから、私たちの思い煩いも、罪も一切を御子イエス様に背負わせ、私たちの身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、私たちは、イエス様を救い主として受け入れるすべての人は、罪赦され、神様の家族・子として迎え入れられる、その特権が与えられるのです。この世と調子を合わせる必要がないほどに聖霊様で満たされる、変えられる、恵みに溢れさせてくださるのです。イエス様の命にあって取り戻されたのならなおのことではありませんか。

 

思い煩うことだって人ですから私たちにはあります。しかし、神様は「その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない」とおっしゃります。むしろ神様にそれらを委ね、神様に新しくしていただこうではありませんか。神様があなたをイエス様の命にあって再建して下さるから。