「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、『さあ、ほかの神々に仕えよう』と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。」
申命記13章6-11節
いわゆる宗教2世問題が出てきてだいぶ経ちます。とはいえ、表に出していなかっただけでずっと昔から存在していた問題ではありますが。特に最近の某商人の件など、今取り上げるの?というくらい放置していたほど。親の勘違い、洗脳、そうしたものによって子供は犠牲となる、何と悲しい事だろう。しかもそれが偽物と言うならなおのことです。自分たちの都合の良い「宗教」に変えて支配する。恐ろしい話。しかし、神様は2世だの3世だのではなく、あなたを愛し、御子イエス様の命をもってまで愛して下さる、宗教ではない、神様の子として迎え入れて下さるのです。私たちは神様の愛を受け、この愛に生かされ歩もうではありませんか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。この章では約束の地に入っていく上で、神様がここから約束の地に入っていく上で注意しなければいけないこと、ここまで好奇心を持つ対象に気をつけることを見ましたが、この章では具体的な誘惑、惑わしについて出てきます。今回は近親者が誘う問題にフォーカスが当てられています。
モーセは神様に導かれ、「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、『さあ、ほかの神々に仕えよう』と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である」と続けて語ります。
この箇所を読みながら、宗教2世という言葉が頭を過りました。ただ、宗教というのは一つのカテゴリー、私はそのカテゴリーで言えば、キリスト教のプロテスタントになる、宗教何世、でいえば5世になります。ただ、序論でも申し上げましたが、2世も3世も関係ない、あなたはあなた。神様はあなたと命ある関係を結びたい、幸せに生きてほしい、それが神様の願いなのです。
日本にいますと、どうしても檀家さんとか家の宗教の影響が出ますよね。あるお寺生まれの娘さんがまた、お寺関係の方と結婚しましたが、老年になった頃、自分がこの先どこに行くのかわからない、と確信がない事を話していました。それはそうです。その女性は、形の「宗教」、親から押し付けられた「宗教」というカテゴリーの中に生きてきたのであって、神様との関係が皆無だったからです。
じゃあクリスチャンって何?と思われるかもしれませんが、それは「キリストのように生きる人」という意味合いを持っています。そう、そもそも「宗教」ではなく、イエス様の十字架と復活によって回復された神様との関係、リアルな関係なのです。そこに神様の愛が溢れ、新しい者へと、日々変えられていくのです。イエス様の似姿に。
それにも関わらず、この誘惑してくる対象、「宗教」は、「これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない」とモーセを通して神様が仰られているとおりなのです。
一方で神様はこれまで申命記の前半で見てきたとおり、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」とおっしゃっている。両親や家族が誘うことに矛盾していないか、と思われるかもしれない。また、「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神(いのち)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」とも仰られています。
↑の問題提起と神様の仰られている事の何が違うの?と思われるかもしれませんが、「宗教」は教えに従わせますが、先程も申し上げましたとおり、神様はあなたに幸せになってほしい、生きた本物の関係なのです。何か「物」によって結ばれるのではない、分かりやすく言うと家族のような関係です。いや、イエス様が私たちの罪を身代り背負われ死なれ、また復活されたことによって、信じるすべての人を神様の家族・子として迎え入れて下さるのだからそれは言い過ぎではない。本当の関係なのです。神様は死んだ、支配された関係ではなく、私たちに生きた本当の命のうちを歩んでほしいのです。息もしなければ、誰かに運んでもらわなければ何もできない、お賽銭などをしないと願いを叶えてくれない、などそんな無茶苦茶な要求をする神様ではありません。
むしろ「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神(いのち)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と仰られた神様が、私たちにも「心を尽くし、精神(いのち)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛し」てくださるのです。そのいのち、それこそが御子イエス様を十字架にかけるほどに愛された愛、命を尽くされた証なのではないでしょうか。耳を貸さなければ答えない、存在しない偽神、ここのところ見るカルトは耳を貸して、あれしてこれしないと答えない。
しかし、神様ははじめにあなたを愛されたのです。12弟子の一人、ヨハネは晩年、多くの迫害、幽閉を受けながらも手紙に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」と書き残しました。
神様は、この命の関係に招くためなら、とまずイエス様の命を私たちに差し出しました。私たちはこの神様にとどまるなかで、神様もあなたの内に神様のみ心を、御力を、ご計画を現してくださるのです。私たちが支払うべきものを、罪の報酬、死はイエス様がすでに支払われたのです。私たちは惑わされる必要はありません。神様が御子イエス様のいのちを持ってまずあなたを招かれているのです。
ここまで愛されている関係をどうして疑う必要があるでしょう。神様はあなたを迷い出させるのではなく、ここまで愛された神様の子としてあなたを迎え入れて下さろうと、すでに代価は支払い済みなのです。私たちはこのよき知らせ・ゴスペル・福音の中に生きせていただこう。神様があなたの内に留まり養い、導かれるから。
