「しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、『肉を食べたい』と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」
申命記12章15-28節
国にもよりますが、食べて良いものと食べてはいけないものがあります。それは自分たちの基準によりますよね。某商人は血を混ぜたらだめ、と輸血を拒否したりしていますし。またある特定の動物の肉を食べない宗教は、その肉の元となっている動物を神としているから、という理由が大半。しかし、ではその動物を作られたのは誰か?神様です。私たちはわけのわからないルールに生かされるのではなく、神様のくださる一つ一つに生かされ、感謝し、歩もうではありませんか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑では、ここから約束の地に入っていく上で注意しなければいけないこと、特に今回は肉と血についてになります。
ということで、モーセは神様に導かれなお、「しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる」と続けて語ります。
これだけを聞くとどういうこと?と思われるかもしれませんが、↑の前の箇所(昨日の分かち合いの箇所)で、「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである」と述べられています。これまで荒野を一緒に旅をし、祭壇で捧げられた肉をこれまで民は食べていました。しかし約束の地に入れば、それぞれの相続地が与えられ、そこに住みます。
ただ、祭壇・天幕まで遠い部族もあります。その時どうしたら良いのか、神様はその町々で食べていいよ、と仰っているのです。これを額面通りに受け取ったら私たち日本人はお肉を食べることはできませんからね。しかし、神様は彼らに、あなたに、祝福を賜ってくださるのです。どこにいようと、神様が養ってくださるのです。まだ安住の地に行ったことのない彼らはその先どうしたらいいのか不安もあったでしょう。やはり郷に入らずんば郷に従え、なのか?と心配になる、その彼らに神様は応えてくださった。自分たちが好きな方法で、自分たちの思う通りにしなければ生きていけない、のではなく、神様が彼らを、私たちを養い導いてくださるのです。
事実私たちも日本にいながらちゃんと養われているでしょう?気づいていますか?当たり前のことと思って気づいていないだけで、神様は私たちを養ってくださっているのです。倉に納めない鳥をも養い、野の花にさえつゆを滴らせ、美しく着飾らせて下さる神様は、それ以上に愛されるあなたを明日の心配をすることが内容、その日その日、十分に備えていてくださるのです。「食べることができる」と神様が約束されている通り、神様が与え、養ってくださるのです。
そもそも、私たちは「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」のです。イエス様もサタンの誘惑を受けた時に、この言葉を引用し、退けました。菜食主義だから、この話は私たちには関係ない、のではなく、肉を含めて私たちは神様にあって生かされるのです。食べ物だけではない、全てを神様は養ってくださっている、だからこそ私たちは神様に信頼すべきなのではないでしょうか。
それは「あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい」という言葉にも現れているでしょう。レビ人は神様と私たちをつなげる存在、その中で神様が喜び楽しませて下さる。そういう意味で、食べ物云々を超えて、神様との関係、これがあなたを生かすのです。
一方で↑で何度も強調されているのが、「血を食べてはいけない」ということ。序論でも取り上げましたが某商人はこれを勘違いして輸血の拒否をしたりしていますが、そういう問題ではないのです。当時で言えば衛生的な問題もあったでしょう。そしてもう一つ、これから入っていく約束の地では血を食べる習慣がある、それに頼るのではなく、神様が私たちの体を、「血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない」と言われているように、建てあげて下さる。
何より、御子イエス様が私たちの罪の身代りに十字架上で流された血潮が私たちの血を洗い清め、イエス様の割かれた肉・パンを食べ、私たちは新しくされる。私たちの内にイエス様の血の贖いによって新しい命が、永遠の命が与えられるのです。あなたが受け入れるなら、イエス様のこの十字架による救いを。復活のイエス様があなたの内に豊かに働かれ、あなたを建て上げ、神意によってあなたを日々日々、キリスト・イエス様に似たものとして下さるのです。
私たちの周り、現状は様々な問題がありますし、この先どうなるのか不安になるかもしれません。しかし、あなたという人を愛し、あなたを救うためなら御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様が、あなたの内に今日も働かれている、御手を伸ばされていることを忘れないでいたいものです。神様の願いはあなたが生きることです。私たちはこの神様の下さる一つ一つの恵みに生かされ、歩もうではありませんか。そこには神様のはかりしれないご計画が、御心が、御力が溢れ広がっているから。
