「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、入って行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。』気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる。だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。」
申命記11章8-25節
「棚からぼたもち」、そんな言葉がありますが、考えてみれば、棚からぼたもちのように待っていたら、最善の時を逃してしまいます。なぜなら、それはたまたまだからです。しかし神様の御業は偶然起こることではない、神様の必然の愛において、最善の時に、いやいつもあなたに向けて働かれているのです。これを私たちは求めているだろうか。偶然落ちてきて得るような中途半端な関係ではなく、全力の神様の愛の中、私たちは歩ませていただこう。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑の前までは、40年イスラエルの民が彷徨うこととなったことを振り返りながら様々な問題をとりあげ、今、出エジプトを見てきた世代に向け、ただ進むだけではなく、神様が一緒に、しかも具体的に御業を現されることが約束されていきます。
話を進め、なおモーセは神様に導かれ、「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる」と語ります。
今日、命じる命令はこの先も続いていきます。細則のように神様は細かいことを「心配し」幸せに生きることができるよう、助けて下さるわけです。律法が与えられている目的は、これまで見てきましたように、私たちが神様がくださる幸せに満たされ生かされること。その本質は「心を尽くし、精神(いのち)を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛すること」、そして「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という2つの命令に全て集約するわけなのですが、神様は命じる異常その愛を彼らに、私たちに注がれる。神様のその愛はある一点、ある時、何か良い事をしたときだけ答えるわけではありません。神様が幸せにして下さる、という思いを語られ、約束されているのですから、その愛は測り知れません。
神様の言葉には力があります。虚しく帰ってくることはありません。一昨日の分かち合いで、乳と蜜の流れる地について「荒野とカナンの違いは、水源や緑の量だけでなく、家畜の羊や山羊たちの育ち具合にも出でくる。荒野の羊や山羊は、沃地の羊や山羊に比べて、乳の出が悪い。カナンに来ると、一年を通して羊や山羊が食べる『緑』の量が違う。乳の出方もいい。家畜だけではない。イスラエル人の母親たちも、カナンに住んでから自分たちの乳の出でよくなったのに驚いたに違いない。赤子がいくら吸ってもまだあふれるように出る。『乳の蜜の流れる地』という言葉が生まれた背景には、こうしたイスラエル人自身が体験した大きな驚きと感動があったのだと思う。つまり、『乳と蜜の流れる地』は、全てがからからの荒野の生活を体験した人々たちの中からこそ生まれたのだ。苛酷な荒野の生活をたっぷりと味わったきた人間だけが、それを少しも大げさとは思わないで使えた、カナンの美称なのだ」という話について紹介しましたが、もともとはこの天地万物を創られたのは神様です。この神様が祝福される、神様が注がれる愛によって、そこは命の川があふれる。
神様が与えてくださる地、与えてくださった命、これがどれほどのものか、私たちは侮ってはいけません。偶然良い場所、環境、関係、傷害が与えられるのではなく、神様があなたの内に住まわれる、あなたの内に豊かに働かれるからこそ、そこは良い地となるのです。神様ご自身も「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう」と約束されているとおりです。これを季節に従って、つまりあなたがどんな状況にあろうとも、養って下さる、これから先約束の地に入っていく民に語られたように、私たちにもです。どんなところも、どんな状況にあろうとも、神様が共におられるから「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる」のです。
モーセが神様に導かれ「あなたがたは、私のこのことば(神様に導かれてモーセが語った言葉:つまり神様の御言葉)を心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい」と語るように、私たちはただ時分の願いを叶え「させる」対象としてではなく、霊と霊で結び合わされた、生きた関係に生きようではありませんか。
イエス様は私たちの罪の身代わりに、私たちの思い煩いも痛みも、何より罪も一切背負われ十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の家族・子として結びつけて下さる、復活のイエス様の霊、命と私たちは結び合わされる、なんと幸いなことでしょう。この復活のイエス様があなたのうちにす回れ、聖霊様が豊かに働かれ、私たちの内に生きたかわ、泉が溢れるのです。私たちはこの命がけの愛によって神様が広げてくださる御国、命を待ち望み、またここから離れることなく歩もうではありませんか。
