ー他でもない、あなたへの愛ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。―彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている―また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、入って行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。』」

申命記11章1-15節

 

他人事のように物事を見る、考える人、いますよね。我関せず、自分の関心のあることに興味を持つ。それ以外は、自分には関係ないかのように見て、特にこのネット時代、よく知らないのに批判をし、返り討ちに合うこともしばしば。しかし、私たちはもっと広く見るべきではないでしょうか。なぜなら、神様が無関心ではなく何十億人の中のひとりであるあなたにさえ関心を持たれ、愛を注がれ、御手を伸ばし、あなたを養ってくださっている。私達は神様がいかに愛されているのか、その視点で見る時、私たちは神様のすばらしさを知るのではないでしょうか。神様が広げ、与えてくださったこの命、喜び、また隣人を愛し、御国が広がっていく事を切に祈ろうではありませんか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑の前までは、40年イスラエルの民が彷徨うこととなったことを振り返りながら様々な問題をとりあげ、今、出エジプトを見てきた世代に向けて神様の愛をなお語られていきます。

 

そんな中、神様はモーセを通し、「あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである」と語られます。

 

この荒野の放浪で第1世代はヨシュア、カレブ以外の当時の20歳以上の軍務につく人たちはみな死に絶えています。という事は、今聞いている、語られている対象は、それでも出エジプトの際神様がいかに力強い御手をもって導き出されたのかを目撃している、当時「10代以下」の人たちに向けて語られている。その力強い御手は決して変わらない、だからこそ、神様を求めよう、と。神様が導き出され、また与えられる土地に今向かっているのだから、と。

 

さらに「また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである」と続けて語られます。コラの反乱ですね。ルベンの子たちと手を組み反乱を起こし、大地に生きたまま飲み込まれていったことそしてこれに加わろうとしなかった人たちは生きたのです。

 

神様は、地の底ではなく、ここまで見てきたとおり、彼らが、私たちが幸せであることを願っているのです。あの人達はこうだけど自分はそうしてもらえない、不幸だ、とか、そういう話ではなく神様はあなたに生きてほしい、あなたという人を神様は見、またあなたの内地に命の川を溢れ流れさせてくださるのです。

 

それは具体的に、「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、入って行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」と語られます。

 

ちなみに、乳と蜜の流れる地について、他のある人は「荒野とカナンの違いは、水源や緑の量だけでなく、家畜の羊や山羊たちの育ち具合にも出でくる。・・・荒野の羊や山羊は、沃地の羊や山羊に比べて、乳の出が悪い。・・カナンに来ると、一年を通して羊や山羊が食べる『緑』の量が違う。乳の出方もいい。家畜だけではない。イスラエル人の母親たちも、カナンに住んでから自分たちの乳の出でよくなったのに驚いたに違いない。赤子がいくら吸ってもまだあふれるように出る。『乳の蜜の流れる地』という言葉が生まれた背景には、こうしたイスラエル人自身が体験した大きな驚きと感動があったのだと思う。つまり、『乳と蜜の流れる地』は、全てがからからの荒野の生活を体験した人々たちの中からこそ生まれたのだ。苛酷な荒野の生活をたっぷりと味わったきた人間だけが、それを少しも大げさとは思わないで使えた、カナンの美称なのだ。」と書き記しています。

 

神様は全てを新しくして下さる。例え何も実が結ばれない、と思う日々を通っていても、神様があなたをこの地に導かれる。大げさではないほどの神様の下さる恵みがあなたを養って下さる。あなたを他人事としてみているのではなく、あなたという人を、他のところがどうではなく、神様ご自身が、天のつゆを降らせ、満たして下さる、絶えずあなたに心をかけてくださっているのです。

 

神様は、この世の思い煩いや痛み、何より罪によって枯れ果てた私たちをもう一度生きた、天のつゆを注ぎ生かすため、私たちのこれら一切、罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の救いを信じる全ての人をも同じように復活の恵みに与らせていただける、新しくされる

 

聖霊様のつゆがあなたを満たし、またすべてを与えて下さる。この愛から私達を引き離すことができるものはありません。なぜなら、イエス様のいのちをもってまで、あなたを救い、命の道へと招かれたのだから。私たちは今日、これほどまでに愛されたイエス様の血潮を受け、神様のことされた特権を受け、神様の潤しによって生かされています。私たちはこの神様に今日もう一度立ち返ろう。そして、いつも神様の天のつゆ、恵みに生かされ、歩もうではありませんか。