ーもう一度の愛ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そのとき、主は私に仰せられた。『前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。』そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。―イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である―私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、『民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らは入り、その地を占領することができよう』と言われた。」

申命記10章1-11節

 

人間関係において、なにかあると完璧に修復することは困難です。どうしてもしこりが残り、あの時はこうだったじゃないか、と似たようなことがあれば蒸し返される。もちろん仲直りをすることができても、なかなか難しい。これが人間。しかし神様は、御子イエス様の命をもってあなたと関係回復させてくださり、神様の子として迎え、その特権に預からせていただける。その扉を先ず神様がイエス様の命をもって開かれました。そこには人間が取って付け加える、削る必要のない、溢れんばかりの恵みがあるのです。私たちはこの神様の愛の前にひれ伏し、また立ち返り、この恵みに生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑では、40年イスラエルの民が彷徨うこととなったことを振り返りながら様々な問題をとりあげ、この先進む中で何が問題だったのか、改めて振り返り、その中でいかに神様が、それでも愛されたのかを語られ、その約束をさらに神様は深めて語られます。

 

話を進めて、モーセは神様が「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ」と仰られた事を振り返ります。

 

9章でモーセが振り返った中でも分かち合わせていただきましたが、イスラエルの民はモーセの帰りが遅く、神様を不審に思い、金の子牛像をアロンに造らせ、アロンもこれに積極的に応じ、淫行を伴う祭りを行い、挙げ句これがイスラエルの民をエジプトから救った神だ、そのエジプトに救われたんだ、と宣言してしまったのです、祭司たるアロンが。そうなったら普通、神様もアレヤコレヤをつけ加えて厳しくする、と思いきや、神様は「前のような石の板を」と語り、「わたし(神様が)」前と同じように書き記すよ、と約束されたのです。

 

もう随分昔からエホバの証人だの、モルモン教(ものみの塔)だの、統一協会だのと「キリスト教『系』宗教団体」の問題が取り上げられてきましたが、一つ言えることは、キリスト教「系」と言ってもキリスト教ではありません。彼らは救われるための条件を付け加えていますが、そもそも、「イエス様が私の罪の身代わりに十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられた、救い主」として信じ受け入れる、それだけが救いの条件なのにも関わらず、神様を結局信頼できず、聖書にこう書いてあるから、と捻じ曲げたり、新しい宗教書を作り出したり。何故新しく作る必要があるのか、それは自分たちに都合のいいように解釈するためです。

 

神様は、「最初の板にあったことばを書きしるそう」と言われたのです。あれを加える、これを加える、ここまでしたんだから少し罰を加えたほうが良いとはせず、そのまま同じ言葉を記されたのです。モーセが付け加える必要もない、神様がそのまま書き記された。それが神様の御思いだったのです。アカシヤの箱に入れる、とありますが、アカシヤの箱の元となる木は特別なものではなく、実は彼らが旅しているところに十分にあったのです。そしてそこで憩う、休むのに適した木でした。

 

神様の御言葉はある意味で非常に価値のある、何にも代えがたく、一点一画も落とすことができないほどに、私たちの全てに答えてくださるものです。これに勝るものはありません。しかし、それは私たちが幸せになるため、神様のくださる大いなる恵みの中で長く生きることができるよう神様が養ってくださるのです。神様はアカシヤの木を選ばれたように、あなたを休ませ、あなたを活かし、神様の恵みの中に私たちを招き入れて下さる。何か神々しすぎて近づけない、遠く離れたものではなく、また私たちが手を出す必要のない、付け加える必要もない、神様の愛そのものがここにもう一度与えられたのです。

 

神様は「前と同じ文で書きしるされ」ました。覚えているでしょうか。十戒のほとんどは「〜してはならない」とか「〜しなさい」ではなく、神様の願望未来形、「〜しないだろう」という意味で書かれていたことを。殺さないだろう、殺さない状況に守るからね。姦淫しないだろう、姦淫しないほどに素晴らしい相手を与えてくださるし、心を守って下さる。盗まないだろう、そもそも神様はすべてを与え、また備えて下さる、明日何を食べるか、飲むか、着るか心配する必要はないよ、とイエス様も仰られました。他にも大半はこの形が使われています。

 

この先代2世代は約束の地に進む、でもその中でも神様の愛は変わらず、戦闘能力のないレビ人が先頭に立ち、しかも契約の箱(この十戒の板や、アロンの杖、マナの壺の入った箱)を担いでもなお、神様は守られ、共に進まれ、戦ってくださっていた。その約束は変わらず、暗闇の中にいたエジプト時代から救い出し、光を照らす、アロンの杖の約束も世代が変わっても変わらず、神様の養いは約束の地に入っても変わりませんでした。私たちの心変わりがあっても、神様の御心代わりはないのです。私たちが移ろいやすいだけで。

 

神様は、↑で「私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、『民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らは入り、その地を占領することができよう』と言われた」とあるように、40日40夜と言わず永久にあなたの内にとどまり、私たちを滅ぼすのではなく救うために、私たちを見捨てず、身代りに御子イエス様を十字架にかけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の救いを信じ受けいれるすべての人の内に復活のイエス様が住まわれ、その恵みを、あなたの魂の底から溢れ流れさせて下さるのです。彼らを雲の柱、火の柱が先頭に立って導いていったように、主ご自身があなたを導かれるのです。

 

神様は、イエス様の十字架上での「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分たちで何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願された、その執り成しを受け入れてくださった。私たちを滅ぼすことを思いとどめ。そこまでしてまであなたを愛する決断をされた、「まず」愛を実行された。あなたはこの愛を受けてどう応答するだろう。神様は変わらぬ愛をもってあなたが帰ってくることを両手を広げて待っていてくださる。このイエス様の命をもって開かれた扉の先、天の御国に続く命の道を、イエス様とともに歩ませていただこうではありませんか。永久に変わらない愛をもってあなたとともに進まれ、導かれるから。