「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。『わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も―そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。』」
申命記5章1-21節
現代ではSNSやスマホ等の発展によって簡単に連絡を取り合ったりすることができる、それと同時に、関係の軽薄さが見えてきます。何年か前でしたら既読無視さえ、いじめの対象になっていたほど。まあその辺りを批判するつもりはない(いじめは問題外ですが)のですが、神様は遠く離れた関係ではなく、私たちと近しい関係、私たちの内に住まわれ、養われ、導かれる。顔と顔を向け合うほどに。私達は神様が聖なる関係に招いてくださったのですから、この神様の招きに応答仕様ではありませんか。神様は最高をもってあなたを待っているから。
さて、↑は約束の地を目の前に、いよいよモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、これまでの旅を振り返り、今度は、神様がこれまでモーセを通して語られてきたことを、第2世代にも伝えていくことになります。これが申命記のメインになってくるのですが。モーセは申命記の中でいくつかの説教をするのですが、ここから2番目のメッセージを語り始めます。↑では主に十戒の話になります。
本当は十戒を1つ1つ分けてみても良いのですが、出エジプト記で1つ1つ分かち合わせていただいたこと、また申命記の振り返りの中で語られていることを踏まえ、一つの塊で見ていきたいと思うのですが、そもそも、神様は「戒め」としている十戒は殆どありません。〜するだろう、〜しないだろう、という形で、願望未来形で十戒のほとんどは現されています。なにかしたら罰を与える、とかそういう縛り付けるものではなく、ここまで見てきたように、神様は私たちの幸せを願っておられるのです。何より、真理なる神様は私たちを本当の意味で自由にしてくださる。束縛から解放してくださるのです、罪の、サタンの、この世のしがらみの。
モーセは十戒について振り返る前に、「聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである」と語っています。
神様は、顔と顔を合わせる位の距離感で彼ら、また私たちと関係を結びたい、しかし彼らは火を恐れた。これまで彼らを導いてこられた火の柱、いや神様のご臨在を。まあ確かに神様のきよさの前に人は立ち仰せないほどですが、神様が招いておられるのです。
この視点で十戒を見るとまったく見え方が変わります(詳しい話はブログの出エジプト記の項目を開けば見れます〈20章〉)。先程、神様はほとんど願望未来形で語られている、と申し上げましたが、まさにそうなんです。神様は、他の神々(神様は唯一真の神様ですが)が必要ないほどにすべてを満たしてくださるし、私たちがなにか自身がなくて膝を折って拝む(日本で言うなら神社などでの神頼みみたいなものでしょうか)、倒れ込まないよう支えてくださる、神様のお名前をみだりに使う必要ないほど、神様は親しい、それこそ顔と顔を向けた関係で語ってくださり、導いてくださるのです。神様の定められた聖なる中に。
いま世代は第2世代に変わってはいますが、神様は永久の愛を注ぎたい、報いが3第4代と続くのではなく、神様の永久の愛に生かしてくださるのです。神様に不足はありません。あのエデンの園に全てが備えられていたように。この神様の助け、神様の恵みの中に生きる時、家族の関係の回復、人を殺す必要のないよう心を満たしてくださる。完飲する必要のないほどの喜びの関係を夫婦の中に与えてくださる。盗む必要のないほどに神様はすべてを与え、偽証をするよりも、神様を喜びたくなる、褒め称えたくなる状況に導いてくださる。他の人は他の人。あなたはロボットではないのですから、コピーペーストしたように全く同じようにするのではなく、神様は一人一人に最善を備えてくださっているのです。この神様の聖なる関係にあなたを招かれているのです。
神様は上から押し付けるような関係ではなく、十戒が語られた後、山に登ったモーセは幕屋の設計図を神様に示されながら、神様がともに住まわってくださる、と約束してくださったのです。神様は遠い方ではなく、人となってイエス様は生まれてきてくださった。神様の御子であられながら。最も近しい関係になるために全ての試練を受けられ、最後は私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、本来罪によって断絶されていた関係を、聖なる関係を回復させてくださるのです。イエス様の命をかけて。この十字架の前に悔い改め立ち返るなら。
私たちがこのイエス様の前にひれ伏す時、私たちは、あなたは神様の家族として招き入れられる。神様が聖なる人定められた日、永久の安息に。私たちは何を恐れているのだろう。神様はあなたに顔を背けるのではなく、顔を向けられ、命の内に招かれているのです。神様の家族・子として招いて下さっているのです。↑で仕事云々の話が挙がっていますが、仕事をしてはいけない、というわけではありませんが、神様はあなたの内に完全に御心を現して下さるのです、このイエス様の命にあって。私達は神様との関係を殺さず、盗まず、他のものに奪い取られず、神様が最高のものを備えて下さっていることを信じ、委ね、歩もうではありませんか。そこに広がる神様の栄光の御業を仰ぎ見て。