ー最後の最後までー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて、言った。『主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています。もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります。イスラエル人のヨベルの年になれば、彼女たちの相続地は、彼女たちのとつぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の部族の相続地から差し引かれることになります。』そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。『ヨセフ部族の訴えはもっともである。主がツェロフハデの娘たちについて命じて仰せられたことは次のとおりである。【彼女たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。】』ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、そのおじの息子たちにとついだ。彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族にとついだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」

民数記36章1-13節

 

責任は負います、と言っても人間最後まで責任を負いきれるものではなく、実際政治の世界でもまともに責任を取った人を見たことがない。為政者なのにもかかわらず。しかし神様は問題を放置なさらず、神様の道へと引き戻してくださる。神様の善へと導いてくださる。私たちはたとえどこにいようと、どんな状況にあろうと、神様を求め続けようではありませんか。

 

さて、相続地問題に決着がついたところで、神様は「旅程の出発地点を書き」記すように仰り、それを終え、彼らは今約束の地を目の前にし、神様はモーセを通して最後まで、約束の地に入った後どうするのか、それを語られてきました。昨日の箇所では、レビ族以外の所有地について、見てきましたが、実は相続地問題でもう一つ問題が残っていました。その出来事が↑になります。それが民数記最後の箇所になるのですが、ある意味では民数記がただ数だけを数える箇所ではなく神様の恵みの数々を覚える書物であることを改めて覚えさせていただける箇所になります。

 

約束の地を前に、ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えてきます。ヨセフ族は、もともとかつてエジプトを救うために宰相と最終的になったヨセフの子供、マナセとエフライムを2つの部族に分けたため、このマナセ族というものがでてきているわけですが、以前27章で分かち合わせていただいたように、実は嗣業の地を次ぐはずの家長が何かしらの罪によって死んでしまい、彼らの娘たちには相続権がどうなるのか、それを心配しているのです。

 

その時の問題について神様はモーセに語り、彼女らに「男の兄弟がいない場合の所有地はどうなるのかという訴えをしています。それに対して、人に男の子がいない場合には相続地は娘に渡すようにというのが主の指示でした」とモーセは取り次ぎました。ある意味では答えは出ているはず。また蒸し返すのか、信頼できないのか、という話ではなく、神様は私たちの心配事をじゃあ放置する、そんな事はないのです。もう話した事だから、と私たちだったら時には面倒に思う事があるかもしれませんが、そんなことはなさりません。

 

後の古代イスラエル王国2代目の王ダビデは「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」と詩に残しています。神様はなにか善行を積んだら応えるとかそういう神様ではありません。神様に立ち返り、神様を求める人には神様は喜んで答えてくださる。イエス様も、またか、と思う同じような質問にも、誠実にいつも答えてくださった。不信仰と指摘してもなお、癒やされる。

 

当時イスラエルでは女性は人数にカウントされない風習がありましたが、それほど弱い立場の人にまで神様は目を留めておられるのです。どうせ私なんて、と私たちは思う必要はありません。神様があなたを愛し、つくられた。何よりあなたのために御子イエス様の命さえ惜しまなかった方がどうしてあなたを見放すでしょう。終わりの時まであなたが帰ってくるのを待っています。私たちは神様から離れ好き勝手に生きてきた罪人、そんな私たちが正しい人、などとはとても言えません、が本当に正しい人というのは神様に立ち返り、神様とともに歩む人。そこに全てがある。あなたが揺るがされるように神様はなされないのです。

 

話を進め、今女性たちは揺るがされる問題に直面しています。約束の地に入れば結婚もするでしょう。しかし、一つ問題があるのです。申し出た女性たちには男の兄弟がいないため、嫁いでしまったら、部族の相続地を失ってしまう可能性があるのです。それは仕方ないこと、先祖が罪を犯したから悪い、と神様は一蹴することなく、真正面から答え、相続した娘が結婚した場合の相続地はどうなるのかとの訴えに対して神がお答えになられました。神様の処置は部族間の者に嫁ぎなさいということでした。また、相続地だけでなく、地境さえも勝手に動かしてはならないのです。ましてや、土地の賦与はその部族とその子孫に永遠に与えられた神様の賜物であるゆえに、決してそれを手放すようなことをしてはいけないよ、ということでした。

 

神様は適当な土地を与えるわけでもなく、残りたいと言っていたルベンとガド族にさえ、放牧地としてふさわしい場所を良し、と与えてくださりましたし、彼らを助けるため、マナセ族を半分に分け、彼らを助けるように神様は後に指示します。それは彼らを見捨てていなかったまさに証ではないでしょうか。

 

神様は、最高のものを備え、与えてくださる。手放す必要もなく、売り払う必要もなく、また地境を動かしてかすめ取るとか、満足できないようなものではなく、神様の与える嗣業の地、底において神様を求める、その中で神様の恵みがあふれるのです。それに失敗したのが彼らの兄弟国であるエドムやミデヤン、アモン、イシュマエル族なのですが。彼らは自分たちが神様から最高のものを頂いているということに気づかず、地境を動かして攻めようとする。しかしそこに何の恵みがあるでしょう。それは現在の歴史を見ても明らかではありませんか。

 

神様はこの命ある相続地にあなたを招くため、御子イエス様の命をもってその代価を支払ってくださったのです。私達は第1世代のように罪を犯したゆえに本来神様のもとに帰ることは許されません。この嗣業の地、神様の恵みが溢れ流れるところに。しかし御子イエス様が十字架にかかられ、死なれ、その津味を身代わりに引き受けられたことによって、イエス様に立ち返るすべての人のつ味を許し、3日めにイエス様がよみがえられたように、私たちも新しい私達として、御霊によって生まれ変わらせていただき、神様の家族として、子として迎え入れられるのです。

 

そこには何の過不足もありません。私たちは嫁ぐ先どころか、神様の家族につなげられたのですから、しかもイエス様の命を持ってまで。どうして私達を神様が見捨てることがあるでしょうか。私たちはむしろ最後まであなたを養い導かれるイエス様に最後まで、信頼し、共に歩ませていただこうではありませんか。