ー成功した数や失敗した数を数えるのではなくー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はモーセに次のように言われた。『あなたと、祭司エルアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、人と家畜で捕虜として分捕ったものの数を調べ、その分捕ったものをいくさに出て取って来た戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。いくさに出た戦士たちからは、人や牛やろばや羊を、それぞれ五百に対して一つ、主のためにみつぎとして徴収せよ。彼らが受ける分のうちからこれを取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。イスラエル人が受ける分のうちから、人や牛やろばや羊、これらすべての家畜を、それぞれ五十に対して一つ、取り出しておき、それらを主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えなければならない。』そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。従軍した民が奪った戦利品以外の分捕りものは、羊六十七万五千頭、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人間は男と寝ることを知らない女がみなで三万二千人であった。この半分がいくさに出た人々への分け前で、羊の数は三十三万七千五百頭。その羊のうちから主へのみつぎは六百七十五頭。牛は三万六千頭で、そのうちから主へのみつぎは七十二頭。ろばは三万五百頭で、そのうちから主へのみつぎは六十一頭。人間は一万六千人で、そのうちから主へのみつぎは三十二人であった。モーセは、主がモーセに命じられたとおりに、そのみつぎ、すなわち、主への奉納物を祭司エルアザルに渡した。モーセがいくさに出た者たちに折半して与えた残り、すなわち、イスラエル人のものである半分、つまり会衆のものである半分は、羊三十三万七千五百頭、牛三万六千頭、ろば三万五百頭、人間は一万六千人であった。モーセは、このイスラエル人のものである半分から、人間も家畜も、それぞれ五十ごとに一つを取り出し、それらを主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えた。すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、モーセに言った。『しもべどもは、部下の戦士たちの人員点呼をしました。私たちのうちひとりも欠けておりません。それで、私たちは、おのおのが手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来て、主の前での私たち自身の贖いとしたいのです。』モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。千人の長や百人の長たちが、主に供えた奉納物の金は全部で、一万六千七百五十シェケルであった。従軍した人たちは、戦利品をめいめい自分のものとした。モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念とした。」

民数記31章25-54節

 

人は失敗した数だけ成長する、のだろうか?成功したらそれを自分の手柄にするのは当たり前、でいいのだろうか?とふと思うのです。失敗したら、それを繰り返していけばいつかは報われる、それはある意味では自己満足にいきかねない。得たもの、与えられたものは神様からの恵みです。失敗したように見えても、神様がすべてのことを働かせて益としてくださります。自分の努力で勝ち上がるのではない、むしろ神様に委ねる中にあって私達は驚くべき恵みを見させていただけるのです。私達はいかに神様に愛され、また自分では気づかない中で恵みを受けているのか、日々数え上げ、さらにこの恵みが溢れることを祈り願おうではありませんか。そこに神様の御国が広がっていくから。

 

さて、↑はかつてミデヤン人とバラムの企みによってイスラエルに大損害(誘惑によって)を与えられ、神様から引き離そうとした、この誘惑によって失われた2万4千人の命に対する報いの戦いを神様が助け導かれ、勝利した後の話になります。

 

それにしても、ミデヤンはだめでなんでイスラエルの味方を神様はされるんだ?と思う人も多いかもしれない。まあ、これがホロコーストや彼らへの差別に繋がっているのですが。でも、そもそも人類の元をたどると、アダムとエヴァに行き着き、そのアダムを作られたのは神様です。一度ノアの箱船の時にノアの家族以外滅ぼされましたが、それでもまたその一族から増え広がっていきます。

 

だから本来みな神様の恵みを受けるはずだったのです。それはそうです。我が子を愛さない親はそうはいません。しかもミデヤン人はアブラハムのおいのロトから派生した、かなり近い兄弟国であるにも関らず、彼らは自分たちがいかに祝福されているのかを無視して、当たり前と考え、イスラエルの祝福を妬み、攻撃してきた。それは他にもいろんな部族があるのですが。

 

神様が「あなたと、祭司エルアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、人と家畜で捕虜として分捕ったものの数を調べ、その分捕ったものをいくさに出て取って来た戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。いくさに出た戦士たちからは、人や牛やろばや羊を、それぞれ五百に対して一つ、主のためにみつぎとして徴収せよ。彼らが受ける分のうちからこれを取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。イスラエル人が受ける分のうちから、人や牛やろばや羊、これらすべての家畜を、それぞれ五十に対して一つ、取り出しておき、それらを主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えなければならない」と仰られて、数え上げられた数、相当の数だと思いませんか?ぶんどり物の前に、そもそも、それだけミデヤン人もまた祝福されていたのです。↑で獲得したものの一つ一つは神様からの恵みなのです。それに彼らは気づいていなかった。

 

ある時、自分は何でも作れるようになったからもう神様などいらない、とある科学者が言ったところ、じゃあやてってご覧、と神様は仰られた。そこで科学者たちは土をとろうとした時、土も一から、と言われて、何もできなかった。それはそうです。全ては神様からなり、神様へと向かっていく。イエス様が「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです」と仰られたように、あなたが与えられているものを神様に用いてくださいと願う中で、その実は何倍にも広がる、神様を求める中で、たとえ茨の中に落ちようとも神様がそれらを持ち上げて、実を結ばせてくださるのです。

 

私たちは神様を求めているでしょうか。自分の成功、実績、それらは自分のものと誇っていないでしょうか。自分のうちにとどめている限り、いつかは失われていきます。しかし、神様の蔵には尽きることのない愛、恵みが溢れているのです。求めれば与えられます。しかし求めなければどうして神様がさあどうぞ、と差し出されたものを受け取ることができるでしょう。

 

敵からの分捕りもの云々の前に、神様があなたに必要を備え、与えてくださっていることを覚えましょう。そして保護された女性たちも上にありますが、別に差別を神様がされるというわけではなく、むしろ神様はどんな状況下にあっても尽きない恵みを、愛を、御心を現されるのです。それは別け隔てなく、相続地を持たない、戦闘をしたわけでもないレビ人にさえ神様は与えてくださったのです。それに全部族がもってきた、というように、ある部族には与えない、ではなく、神様の愛はすべての人に注がれている、それを恵みとして受け取るかどうかなのです。

 

モーセたちは、この勝利を自分たちのものではなく、神様が恵んでくださった記念としました。神様の愛は飾り物ではない、私たちが滅びるのではなく永遠の命を受けるため、御子イエス様を十字架にかけ、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださった事によって、私たちをしで終わらせるのではなく、信じるすべての人を神様の子として迎え入れてくださるのです。その特権は数に現せない程、このたった一人の御子イエス様の命をもって溢れんばかりの恵みを私たちは受ける、満たされるのです。

 

ここまでの愛を受けてまで注がれる神様の恵み、愛、御心、ご計画…私たちは何を疑う必要があるでしょう。神様がそのあなたを通して更に御国を広げてくださり、私たちは驚くべき神様の御業を見、体験させていただけるのです。私たちは最も大切な、数えても数え切れない御子イエス様の愛、恵みを受け取り、また求め、いつもイエス様とともに歩ませていただこうではありませんか。