ーいつでもすぐそばにいるよー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…第一の月の十四日は、過越のいけにえを主にささげなさい。この月の十五日は祭りである。七日間、種を入れないパンを食べなければならない。その最初の日には、聖なる会合を開き、どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは、主への火によるささげ物、全焼のいけにえとして、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。それにつく穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパをささげなければならない。子羊七頭には、一頭につき十分の一エパをささげなければならない。あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。あなたがたは、常供の全焼のいけにえである朝の全焼のいけにえのほかに、これらの物をささげなければならない。このように七日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。初穂の日、すなわち七週の祭りに新しい穀物のささげ物を主にささげるとき、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。あなたがたの贖いのためには、雄やぎ一頭とする。あなたがたは、常供の全焼のいけにえとその穀物のささげ物のほかに、これらのものと―これらは傷のないものでなければならない―それらにつく注ぎのささげ物とをささげなければならない。…』」

民数記28章16-31節

 

子供はいつかは親元を離れていくもの(神様がアダムとエヴァを造られ、出会わせた時「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」と定められました)。私も介護に関わっていたので全部が全部、というわけでには行かないでしょうが、ある意味では「自立」していく。ただ、同時に人は1人では生きていけない。神様が、あなたの傍にいつもいて下さっている。例え今あなたが一人であろうと。私たちは行ったり来たりする死んだ関係ではなく、命ある神様との関係の中に生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、ヨシュアとカレブ、モーセ以外、第2世代に入れ替わり、人口調査、土地分配の懸案事項を神様に導かれ解決し、リーダーがモーセからヨシュアに変わった、その後から↑は始まります。↑は昨日の捧げ物自体の話の続きで、「神様が」定めた祭りについてになります。つまり、ここには神様の私たちへの思いが込められているわけです。

 

ところで、すでにリーダーはヨシュアに変わること、モーセは約束の地に入れず、約束の地に入っていくヨシュア記からは指揮系統は神様の助けの元、ヨシュアが立つわけですが、しかし世代が変わっても約束は変わっていません。昨日見た捧げ物についても、↑の祭りについても、規定は一切替わっていません(細かい規定についてはレビ記で分かち合わせていただいたので、当方のブログのレビ記のところを開けば見ることができますので、細かい規定の意味を知りたい方はそちらを)

 

例えば、経営者が変われば考え方も変わるかもしれない、と離れる人もいますし、先代の味にどうの、と代が変わると離れる人もいます。しかし、神様の約束は世代が変わろうと変わらない、ということが特に↑の祭り、また昨日から見ている28−29章でよく分かると思います。神様は、昔も今も、これからも、良い意味で変わらない。だからこそ、私たちは変わらない神様に信頼したいものです。

 

祭りの話に進む前に思い出したいのは、アダムとエヴァが罪を犯した時、もう神様は救い主の誕生の約束をされていました。エデンの園を追放されても、神様は彼らを見捨てず、ノアの洪水の後も、彼らを通してその愛は変わらない。その子孫のアブラハムを通して空の星、海辺の砂のように子孫を増やし祝福する約束をされていました。それは子孫子孫へ、出エジプト前も、後も、レビ記も、第2世代になっても変わらないのです。

 

↑には3つの祭り、春の祭りについて定められています(残りは29章にて)。まず1つは過ぎ越しの祭です。これは一番わかり易いのですが、神様がモーセを通してイスラエルの民をエジプトの奴隷状態だった民を救い出されたことを記念する祭りになります。神様は救われる、それは第2世代ヨシュアの世代になっても変わらない、ということをもう一度ここで確認するのです。

 

この過ぎ越しの祭には、パン種(イースト菌)を入れない祭り、がセットになります。イースト菌によってパンが膨らむように、パン種を入れないということは、罪や思い煩いによってあなたをふくらませるのではなく、むしろ神様の恵みによって、愛によってあなたを膨らませて下さる。大いに祝福して下さる。これは毎日行われることですが、毎日、神様はあなたを恵みで、愛で、ありとあらゆる神様のすべてをもって満たしてくださるのです。それが、やはりヨシュア世代になっても変わらないのです。

 

ここでの捧げ物は、昨日分かち合いの中で見ました、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、そして注ぎのささげものです。罪のためのいけにえが伴います。神様は御子イエス様を、私たちの捧げるはずの生贄の身代わりとなられた、その罪を取り除くための生贄として、全商の生贄となられたイエス様、十字架にかかられ、生贄となられ、完全に焼き尽くされた。死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、罪というパン種を取り除き、永遠の命、復活のイエス様があなたのうちに住まわれ、あなたを新しく、命あるものへと膨らませていってくださるのです。

 

繋がってきましたね。あるときだけではなく、モーセのときだけではなく、ヨシュアのときだけではなく、イエス様がすべての生贄となられたことによって、毎日捧げられる祭り、イエス様はあなたを悦びで毎日満たしたいのです。そのためなら、と命さえ惜しまなかったのです。裏切った弟子たちを知ってなお、しようとおもえばできるのに、天に帰ることもせず最後まで父なる神様の愛を全うされたのです。この神様の、御子イエス様の命を惜しまないほどの愛は、人類はじまって以来一貫しているのです。私たちがなにかあると疑うだけで、神様の愛は決して変わりません。

 

それゆえに、今度は7週の祭り、ペンテコステ、聖霊様が降られたのです。新しい助け主として。ある人は聖霊様の働きはもう終わっていると言いますが、もし終わっていたら、イエス様を主と告白することはできません。聖霊様によって、私達はイエス様を救い主として信じることができる、告白することができるわけですし、導かれる、語るべき言葉を教えられ、力を与えられ、殉教・苦難にあっても共にいて助け導いてくださるのです。神様の愛は今も貫かれているのです。

 

イエス様?見えないじゃないか、ではなく、むしろイエス様のこの死と復活にあって、この救いを受け入れた人には聖霊様が降られ、あなたを助け導かれるのです。救いを成就したからもう終わり、あとは天国に来るまで頑張ってね、ではなく、天にゆくまで、世の終わりまであなたとともにおられ、どんなときも導いてくださるのです。

 

ちなみになのですが、「捧げる」という言葉は「持ってくる、携える、連れて来る」という意味を持っています。私たちが捧げる前に、まず神様が御子イエス様を身代りに遣わしてくださった。私たちの側に聖霊様を、慰め主として呼び出してくださり、また弁護してくださる。あなたを助けてくださる、まさにその役割を神様があなたにまず成してくださった。
 

ですから私たちも、日々、自身を神様のもとに持っていき、神様の愛に満たされよう。ある日はこっち、ある日はあっちと、どっちつかずではなく、ときによって変わらない神様に、私たちもときによって変わることなく信頼し、導いていただこうではありませんか。命がけの、貫かれた、一貫した、愛に満たされて。