「モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。『私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。』するとモーセは言った。『あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。』それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。」
民数記14章39−45節
人は大きな失敗をおかすと、なんとか挽回をしようと試みます。これは確かに間違いではないのですが、その前に自己点検し、謝るべきことは謝る、直すべきことは直す、でも、そのまえに謝るべきことがあるなら謝り、改善する、させていただく。これがいわゆる悔い改め、というものなのですが、どうでもいい、と突き進むとろくなことにならない。でも神様は私たちが変えられていくこと、正しく回復していくことを何より願っている、そこに導かれる、だからこそ私達は神様との関係を深く深く、密にもっていこうではありませんか。イエス様は遠い関係ではなく、近い関係になるために人となって生まれてきてくださったのだから。私達はイエス様の十字架を無駄にしてはいけない。
さて、↑は出エジプトから2年、いよいよ約束の地を目前にし、各部族・12部族の中から長を偵察隊として派遣し帰ってきて報告した後の話の続きになります。ヨシュアとカレブは、偵察の40日間の間、巨人族がいて、城壁もあって、危険な中、収穫物を得、また神様に守られたことを報告し、他の10人も、状況は認めても、登っても勝てないから行かないほうが良い、と民の間で悪い噂を流すのでした。そもそも神様はもう与えている、と約束しているのに、勝手に偵察に行かせてくださいと行って結局自分たちには不利だ、とやめる。
それでもモーセのとりなし故に完全に失われることはなかったのですが、もと来た道を彼らが言うように戻ります。しかし神様の憐れみを愛を知っても、自分たちが蒔いた種にもかかわらずなお不平不満を続ける彼らに神様は、「わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう…」と告げられました。
神様は偵察の失敗ですぐに全員を滅ぼすことはされなかった。年数もまだ定めていなかった。一度彼らが言うようにエジプト方向に、来た道を引き返そうとすればまた文句をいう。なら、と彼らがいうとおり、荒野で死んだほうがまし、と言うのでそうする、と決断されました。ヨシュアとカレブ以外。彼らは神様に従うことを決断した。だから彼らの言うとおりにされた。不公平ではない、共に彼らの信仰、決断のとおりに神様はされた、ということ。事実40年先、彼らは約束の地を手にし、平穏に過ごすことになります。
そう言えば、今年の年始頃に見たヘブル人への手紙で「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とパウロが手紙に書き残したことを見ましたが、ある意味でそれぞれの信仰の結果(良くも悪くも)が実を結ばせてしまった。祈りととらえるなら、祈りはたしかに神様はきかれます。悪く祈るならならそうしてみたら?と祈り手の手に答えを渡される。
祈りというのはある意味で神様のみ手に委ねることです。その神様を信じられないということはそれを自分の手に取り戻すようなこと。結果、彼らは荒野で40年さまよい、20才以上の登録者は荒野で死に絶えることになるのでした。もちろん、神様はその場で滅ぼすのではなく、この旅の中で再訓練を受けながら、様々な問題、戦いの中で決断し、結局彼らはその事件事件で死ぬことになります。神様はそれでも神様に立ち返ることを待っておられたのではないでしょうか。ちなみにモーセの名前も↑に入っていません。実はモーセもこの先に問題を起こします。そして約束の地に入ることはできませんでしたが、約束の地にはいる頃が120と考えれば、厳しい戦いが続くのは大変。細かい話はその箇所を見るとき分かち合います。そいう意味で神様は十分に彼の生涯を導かれたのです。
話を↑に戻し、彼らはこれはまずいことになった、とじゃあやっぱり登っていって戦いに出よう、と決めますが、結局敗北することになるのです。神様、どうして?と思いますか?私達も神様どうしてこんな事が?と思うことはありますよね。神様は愛の神様なのでしょう?どうして助けてくれないの?と。
でも、モーセの「主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように」という言葉に注目すれば、神様は「あなたがたが敵に打ち負かされ」ることを望まない、だから神様のいるっしゃる所に留まることを訴えているのです。今、カレブやヨシュアたちの所に留まっている。約束の地に入れる、という。
たしかに彼らの行動は自分勝手と言えば自分勝手。自分に都合が悪いからやっぱりやめる。なら、神様に立ち返るべきではないでしょうか。神様はあなたが滅びることを望まれない、だからこそ私達は神様が何をなさろうとされているのか、それは計り知れない、だからこそ、神様にすべてを委ねる、神様の仰る御言葉に、神様ご自身に留まるべきなのではないでしょうか。自分のお心ではなく、神様の御心に。
彼らは確かに約束の地についた先の未来を不安視したのかもしれない。しかし、その未来をも保証、導かれるのは神様ではありませんか。神様は一時的にあなたを助ける、困ったときだけ助ける存在ではなく、あなた方とともにおられる、いつも共におられる、そのために御子イエス様「インマヌエル=主は共におられる」を人となって生まれさせてくださり、人の間に住まわれ、どんなに罵られ、裏切られても愛を全うされたのです。それだけではない、私達をなお救うために、私たちが積みゆえに見捨てられることがないよう、イエス様が私たちの罪の身代わりのとなり、十字架にかかられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、この異絵すさ魔の前に悔い改め立ち返るすべての人を40年の荒野、死から引き寄せ、神様の子とされるのです。
その時、イエス様は世の終わりまであなたと共におられ、なお新しい助け主として聖霊様が与えられ、あなたのうちに豊かに実を結ばせてくださる。イスラエルの民は、カレブ、ヨシュアも含めこれから多くの戦いにさらされていきますが、その中にあっても神様がともにおられ、守られたように、あなたも守られ、神様の栄光の実を見、味わわせていただき、約束の地、天の御国まで導かれ、これを相続させていただける。今不安なら、なおのこと神様に留まり、命を賭けてまで愛されたイエス様に委ね、共に歩ませていただこうではありませんか。イエス様こそ我が盾、歌、砦、平和の君、力の神、永遠の父。このあなたが滅ぶことを望まずイエス様まで差し出された神様にすべてを委ね、歩もうではありませんか神様はそこまであいされた、その愛の実をあなたに見せ、与えてくださるから。
