ー強情の強さと、赦しの強さとー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は仰せられた。『わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。』主はモーセとアロンに告げて仰せられた。『いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。』こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。」

民数記14章20−38節

 

正しい関係を築く上でダメなことの一つは強情。もちろん正しいことは正しい、と押し通すこと、それは間違いではないのかもしれませんが、強情な態度は結局、その集団が正しく機能しなくなってしまう。ばらばらになって、ある意味では何も残らない。神様をある人は強情、融通がきかない、と一方でいう人もいますが、じゃあ神様が破壊するのか?違う。神様は、あなたに命を得てほしい、そのための道をいつも示してくださっている。どうして愛する子が苦しむことをよしとできるでしょうか。私たちは神様の導かれる道を共に歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は出エジプトから2年、いよいよ約束の地を目前にし、各部族・12部族の中から長を偵察隊として派遣し帰ってきて報告した後の話の続きになります。13章最後で見たとおり、ヨシュアと彼部は、偵察の40日間の間、巨人族がいて、城壁もあって、危険な中、収穫物を得、また神様に守られたことを報告し、他の10人も、状況は認めても、登っても勝てないから行かないほうが良い、と民の間で悪い噂を流すのでした。そもそも神様はもう与えている、と約束しているのに、勝手に偵察に行かせてくださいと行って、結果それでは本末転倒もいいところです。

 

そこで神様はモーセを通して新しく強い民族を起こし、他は疫病で滅ぼす(もしかしたらカレブとヨシュアは別かもしれませんが)といいつつ、モーセのとりなしを引出し、神様も「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ」と仰られ、彼らの心をそれでも見ようと、彼らが立ち返ることを願ったのでした。

 

神様はそれでも巨人族のいる道を避けさせ神様は彼らを導いてくださっていた。ところが、それだけの神様の栄光を見てなお、民はまだ呟いているのです。神様は彼らを導かれている、「このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる」神様は心を見ておられること、彼らが悔い改めることを願っていたのに彼らはなお強情。

 

そこで神様は↑の後半部のように語られます。偵察の失敗、それでもなお導かれている、にもかかわらず、彼らはなお文句。つぶやき続けたのです。そこでついに宣告が起こりました。ヨシュアとカレブ以外の20才以上の登録されているものは約束の地に入ることはできない、と。荒野で死ぬ、と。40年間荒野を彷徨い続ける、と。

 

↑の前半部を見ると、神様はその場で彼らを滅ぼすことはしなかった、つまり神様はその40年の中で約束の地に入れない中にあっても神様の恵みを示されていたのです(この先も何度も事件が起こり、そのたびに民は神様から離れた行動を取ります)実はモーセもこの中に名前が挙がっていませんが本当に約束の地に入ることはできません。が、彼はその40年の旅の中で神様の哀れみを見、体験するのです。そして40年先、約束の地に第2世代が渡っていくのを山で確認し、召されていくのでした。

 

モーセの落ち度の問題じゃない、民の落ち度の問題ではない、神様は40年と言わず、じわじわ民を滅ぼす、ということをせず、また一発で討たれることもなかった。それこそ神様の憐れみではないだろうか。神様は徐々に荒野の旅の中で立ち返らず逆らう民はみな滅びていきました(途中コラの一族が大地に飲み込まれるという大事件が起こるのですが、神様は彼らの一族を完全に滅ぼすわけではなく、彼らの一部は生き残り、ダビデと並んで詩篇の中に彼らの信仰、詩を書き残しています)が、それでも残っていた者もいたように、このコラのケースからも見えます。

 

神様はいつでも、偵察のときも含めて道を開かれていた、あなたにあなたへの恵みをもう与えている、私たちはいつまで神様を疑い、強情で有り続けるのだろうか。私たちが本来追わなければならなかったはずの咎をイエス様が負うために、神の御子でありながらその有り様を捨てられないとは考えず、人となってうまれてきてくださった。そして十字架で私たちの身代わりに罰せられ、死なれ、しかし3日めによみがえられたことによってあなたを赦し受け入れてくださったのです。

 

あなたが倒れることがないように。世の疫病と言うか、様々な思い煩いによってあなたが神様の恵みから離れていく、神様はどうせ何もしてくれない、と強情になるのではなく、ここまで命を賭けてまで愛してくださる神様がどうしてあなたを恵まず導かれないはずがあるでしょうか。私たちの40年の裁きはイエス様が身代わりに背負ってくださって、神様の恵みへと導いて下さる。世も剣も迫害も、全てあなたを打ち倒すことはできない。私たちは神様がくださる恵みに感謝し、神様に従うことに対しては従順に、神様から引き離そうとする罪に対しては強情に拒否・離れ、神様が与えてくださる、とすでに約束されているこの恵みに生かされ、歩もうではありませんか。