「モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。『あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。』その季節は初ぶどうの熟すころであった。そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。」
民数記13章17−25節
やってみなければわからないことはたくさんありますね。新しい土地、仕事、私も引っ越しが多い人間なので、まず街の散策から始まったのを覚えています。どんな所にどんな店があるのか、どんな近道があるのか、どこの店が便利かなど。ただ知らない土地に行けば知らない人ばかりですから、新しく人間関係を構築するのも大変。私が幼稚園卒園後、遠くに引っ越し、まったく友達がいないなかでそれでも色んな友だちができたのは感謝。今冷静になって考えてみると、神様がすべてを備えてくださっていたんだ。私達は経験則や、色眼鏡で物事を捉えようとして、神様のくださっている恵みを見逃してしまいやすい。私たちの霊の目、心の目を開いていただき、神様のすばらしさを見させていただこう。そこには神様の愛が、栄光が溢れているから。
さて、↑は出エジプトから2年、いよいよ約束の地を目前にし、各部族・12部族の中から長を偵察隊として派遣することになりました。とはいえ、彼らは昨日も分かち合わせていただいたように、疑いの心を持っていた。神様はもう与えている、と約束し、登っていく、相続、受け継ぐことを彼らに言ったにもかかわらず、まず偵察に行って、それが良かったらいただきます、と。
随分な話ではあるのですが、これを神様に相談してか、神様から了承され、モーセは偵察に12人を出します。ちなみにこの偵察の結果起こる事件によって39年近く荒野を彷徨い、偵察に出るホセア=ヨシュア(=主は救い)とカレブ以外は約束の地に入れないのですが。その39年後にもう一度偵察に行くときはなんと、2人で偵察に行くことになるのですが、このときは勝利を確信し、攻め上る決断をするのですが、どこに違いがあったのでしょうね。39年後の話はその箇所を分かち合う時に具体的に見ますね。ちなみに38年後に偵察に出る2人は、ヨシュアとカレブではありません。別な2人です。
実は今回の偵察についてはその38年後の偵察よりある意味では難しい話ではなかったのです。モーセが指示した(神様から導かれ)のは、「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい」ということでした。
敵に勝てるかどうかではなく、強いか弱いか、それが続きの箇所で問題になってくるのですが、強いなら強いで神様が励ましてくださる、神様が強くあれ、雄々しくあれ、と仰られ、すでに与えている、それをただ相続するだけなんだ、と分かっているのですから。
そして住むための土地がどのようなところなのか、良い土地か悪い土地か。今、仮に悪い土地に見えても、神様が連れてきてくださり、相続させてくださる。神様が弱気を強い土地に変えてくださる。神様はだってそうでしょう?これまでも飲めない水を飲める水に、水のない所に水を湧き出し、毎日のようにマナによって養ってくださっていた(安息日を除き。安息日前日は2倍の量を与えられていた)。荒野・砂漠でさえ神様が養ってくださったのに、神様が共におられるなら良いか悪いかなんて関係ないのです。ある意味で。人の目、経験則で、良いか悪いかなんて。
さらには、勇気を出し、その地の果物を取ってきなさい、とモーセは告げます。「その季節は初ぶどうの熟すころであった」、そのタイミングで今、行くのだから、神様が恐れるな、というのだから大丈夫、その確信を持つ必要がありました。彼らは実際に巨人族を見ることになります。が、↑を見て分かる通り、大人二人で担がなければいけないほどの「切り取ったぶどうのふさ」を実際に得るのでした。相当のサイズですよね。
そう、神様は目に見える形で約束を見せてくださったのです。巨人族がいるなかでの偵察は大変でしょう。40日かかった、といいますが、それは彼らの不信仰云々の問題よりも、40日の間、そんな危険な状況から神様は守ってくださったこと、隠れるにふさわしい場所をも備えてくださっっていたこと。また、40日の間何も食べないわけにも行かないでしょうから、その間も彼らが生きていけるように持ち帰る果物だけではない、食べ物を与え、ここで生きていけることも神様は示された。神様ご自身が養ってくださるんだ、と。
私達は生きているのはある意味で当たり前、衣食住が与えられていることはある意味で当たり前、と考えるかもしれません。しかし、もちろんそうではない人たちもいるわけですが、神様は私たちが求める中で答えてくださる、神様はその栄光を見せてくださる。受けたなら、今度は与えることだってできる。偵察から帰ってきた時になにを分かち合うか、私たちが神様から恵みを頂いたなら今度はどうするか?それが問われてくるのです。
神様はモーセを通して、約束の地・カナンを「探る」ように、とおっしゃっています。まあ民が望んだことを、了承した形とはなっていますが、そこで神様は彼らが探る中で、私たちがどんな場面にあっても探る中で神様は見せてくださるのです。見えない、と思う中に神様は恵みを用意されている、それを恵みと思うかどうかは私たちの問題になるのですが。
実はここでの偵察、探る、調べる、という言葉は「見る」という言葉、単語でもともとの聖書では記録されています。私達は見させていただくのです。体験的に。イエス様も、「求め続けなさい、そうすれば与えられます。探し続けなさい、そうすれば見つかります。叩き続けなさい、そうすれば開かれます」と約束されました。私達は神様を求め、神様が与えてくださっている恵みを探り、求めているでしょうか。神様が見せてくださる、その素晴らしさを、その求めた先、神様を叩き続け開かれた先に私達は見せていただけるのです。
彼らの偵察期間は40日でしたが、神様が私たちを愛し導かれる期間に制限はありません。終わりの時が来るまで、ないしあなたの寿命が来るその時まで待っておられ、その御手を伸ばされ、あなたを守り養って下さる。神様の相続しなさい、と用意されているところへ神様はあなたと一緒に導いてくださっているのです。
12人で巨人族のいるカナンを偵察するのは大変だったでしょうし、私でも怖いです。しかし、私たちにはイエス様がついている。私達を救うため、罪のそこから、思い煩いの闇から、墓の中から引き出すため、私たちの身代わりに樹うじ化にかかられ、これら一切を背負われ、死なれたのです。しかし3日めによみがえられたことによってこれら全てに勝利されたのです。もはやこれらはあなたにまとわりつくことはできないのです。
私たちは信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないでいようではありませんか。周りの問題、敵、あなたを惑わすもの、そうしたもの一切から守られ、共に歩んでくださるイエス様に私達は信頼し、素晴らしい栄光を仰ぎ見させていただこうではありませんか。
