「モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。モーセは主に申し上げた。『なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、【うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け】と言われるのでしょう。どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、【私たちに肉を与えて食べさせてくれ】と言うのです。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。』主はモーセに仰せられた。『イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、【ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった】と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、【なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう】と言ったからだ。』しかしモーセは申し上げた。『私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。』主はモーセに答えられた。『主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』」
民数記11章10−23節
いつか、いつか、日の目を見るだろう、そんな言葉を耳にすることがあります。私の以前働いていた教会で、次の後継者も育てていかないと、という話をしていると、未来のことより自分のことだろ、と上司から突っ込まれたのですが、あながち間違ってはいないのですが、後継者を育てることも大事、でも同時に、「誰が」それを行うのか、そこが大事。神様はいつでも今、現在も、あなたの内に御心を成したい、そしてそこからさらに広げていッて下さる。私たちはいつか、と言わず、今日、神様の御心が現されている、この恵みを喜ぼう、味わいつくそうではありませんか。信頼しようではありませんか。
さて、↑は昨日の続き、一部箇所がが重なりますが、エジプトの奴隷状態から神様によって救われ、2年。そして再出発してから3日、もう彼らは神様の恵みに飽きていた。エジプト人の暮らしと比べて、なぜ自分たちはこう毎日同じなんだ、とあれを食べたい、これを食べたい、と不平不満を言い始めたのです。それに対して、神様は怒りを燃やした。しかしモーセはそれでも神様の御心をそれでも求めた、民のような不平不満ではなく、神様の御心を求めたのです。
そこで神様は「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ」と答えます。
おお、神様は民の不平不満に答えてモーセの負担を軽くしたのか?違う。それでは民が本来受けられるはずの神様の最高の恵みを失ってしまう。神様はそもそもいつも同じものを与えていると言うよりも、日々日々養ってくださっている、それこそがマナという食べ物の本質、神様の愛は途切れることがない、求めれば与えられる、それこそが神様の思いなのです。
民はそれよりも、自分たちが求めること、神様は何も普段してくれていない、と考え、ついに、神様より憧れのエジプト人たちの食生活を求めた。結果、この続きの箇所で、願いがかなったと思ったら、結局不平不満を言った民は疫病で打たれるという悲しい、残念な結果を迎えるのです。同時にモーセは負担は減らされます。神様は今、答えてくださる方なのです。その答えを自分の喜びとするかどうかの問題です。
神様は生かしてくださる神様です。死をもたらす、疫病を蔓延させたい神様ではない、むしろ私たちの内に恵みを注ぎ、生かしたいのです。確かにモーセ一人で彼が「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか」と神様に質問するように、彼自身には無理です。
しかし神様なら可能です。どうして?この天地万物を創られ、また全ての生きとし生けるものを造られた神様がどうして養うことができないはずがあるでしょうか。神様は、今、この時も、私たちが不安なときも、辛い時も、いつまでこんな状況が続くんだろう、そう思う中にあっても神様は今、今日、このところに御心を現してくださっているのです。
神様はモーセのこの質問に「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と答えてくださりました。神様は御心を先延ばしにされない。手が短い、神様の答えられない問題はない、神様は日々日々今日、この日この日の恵みを、御心を実現してくださる。今神様がどんな思いを持って私たちを愛しておられるのか、その道を示される。自分の時計に神様を合わせるのではなく、私達は神様が今なされていることが、今現在進行系で起こっている一つ一つの恵みを、恵みと思い感謝したい。今、神様は私たちの内に働かれる、わからせてくださる。広大な計画であっても、それがどれだけ素晴らしいものなのか分からせて下さる。
むしろ計り知れない御手をもって私たちを包み、導かれている、御子イエス様を十字架にかけてでも私達を救わんと、イエス様の命を惜しまなかった神様が、切り開かれる一日一日がどうして他と比べられるでしょう。このイエス様によって開かれた一日はこの世の千日にまさる恵みが広がるのです。確かに他と比べて自分がみすぼらしい状況に陥る日があるかもしれませんが、この一日一日に御心を現されるのは神様です。広げられる、与えられるのは死ではない、いのちです。イエス様の十字架と復活によって死から命へと変えられるのです。
パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」と勧めます。私たちはイエス様にある新しい命、永遠の命がもう始まっているのです。大きな利益を神様がもたらして下さる。私たちはこの神様のくださる一つ一つの恵みに感謝し、今日も生きよう。主が共におられるから。
