「モーセは幕屋を建て終わった日に、これに油をそそいで、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具もそうした。彼がそれらに、油をそそいで聖別したとき、イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち―彼らは部族の長たちで、登録を担当した者―がささげ物をした。彼らはささげ物を主の前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来た。すると主はモーセに告げて仰せられた。『会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。』そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」
民数記7章1−9節
車は、ディーゼル、レギュラーガソリン(今の時代は電気や水素などもありますが)が主に使われていますね。私の車はレギュラーガソリンですが。いずれにしても、車が走るには何かしらのエンジンが必要、乗っている人を運ぶにはやはり何かしらの乗り物が必要(馬車とかをイメージしたら分かりやすいでしょうか)。私たちはどうしても1人では生きていけない。何より神様なしには生きていけないのです。私たちはイエス様が私たちの荷を負ってくださっている、聖霊様というす場らしいエンジンが働いていることを覚えよう。神様があなたを愛し、すべてを備え導かれることに感謝し、歩もうではありませんか。
さて、↑は再び出発する上での準備、7章は主に捧げ物と、配列についてになります。今回は捧げ物になります。まあ↑を見て、だから何?と思う方もいるかと思いますが、これは本当に深い。一見バラバラに見えて、これらが一つとなるのです。
油・車・牛、これらは馬車をイメージしたら分かりやすいですよね。車を引っ張る牛、そのエネルギーとなる食料。私たちだってそうです。人は1人では生きていけない、だから神様はそれぞれに相応しい助け手を与えてくださる、くださった。それはアダムにエヴァを神様が連れてこられたのと同じです。
話を↑に進めて、「モーセは幕屋を建て終わった日に、これに油をそそいで、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具もそうし」ました。何で油を?と思うかもしれませんね、ぬるぬるしていやじゃないの?と。でも、油は神様の霊が注がれる時に用いられました。例えば、オリーブオイルは病気の人のために使われていたことが医療が構築されていない当時いりました。また、イスラエルの王に選ばれる時も油を注がれます。イエス様も油注がれたもの、と言われていますね。
「神様が」決められたこと故に、神様の祝福が注がれるのです。人間が決めた決め事ならただの油でしかありませんが、この油を神様が注ぐように仰られた、それは神様が特別に聖別され、ご自身を注がれるということです。ただの器具は器具ではなくなるのです。私たちもですよ?神様の油、聖霊様が注がれる時、私たちは多くの賜物を与えられる、助け主が私たちの内に働かれるのです。
アダムも、神様が息吹をかけられたとき、「生きたもの」、神様の愛に生かされたものとなったことを。神様は、あなたをただの人であるのではなく、本当の意味で「生きたもの」・「神様の愛に生かされるもの」であることを望まれているのです。自分でもっといい人間にならなければ、というのは世の中レベルです。しかし、この天地万物を創られた神様があなたのうちに働かれる。想像するだけでワクワクしますね。
さらに「彼(モーセ)がそれらに、油をそそいで聖別したとき、イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち―彼らは部族の長たちで、登録を担当した者―がささげ物をした。彼らはささげ物を主の前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来」ました。そう、それぞれにその油が注がれる、神様にとっての思いは不要な人はいない、願わくばすべての人が神様の愛に生かされることを望まれるのです。
だから、神様はモーセを通して「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ」と仰られるのです。それぞれに、渡され、彼らの奉仕のうちに、彼らの歩みのうちに油・神様の霊・聖霊様が働かれるのです。あの人はだめ、この人はだめ、ということではなく。
この神様の語られたことに応え、モーセは「車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与え」るのでした。レビ族のそれぞれの諸氏族に与えられました。運ぶにしても、相当量のものがありますから、車と、それを引く雄牛が必要になります。私達が歩む上で必要なものはすべて神様は与えられているのです。神様が仰られた、神様がそうしてくださるのです。神様が嘘をついたら大変な話ですからね。神様の仰ることは虚しくかえってくることは決してありません。
じゃあ↑にもありますが、なぜケハテ族には何も与えられなかったのか。差別?いえ、神様は差別される方ではありません。それぞれに相応しいベストをいつも備えておられます。それを求めるか否かの問題で。ただケハテ族の場合は「彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである」とその理由が述べられています。
それはゲルション族とメラリ族の与えられる数の差でも見えてくるのですが、もう一度彼らの運搬するものを思い出しますと、ゲルション族に車二両と牛四頭です。車一両に付き二頭の牛です。メラリ族のほうが車四両と多くがあてがわれていますが、それはゲルション族が幕を運ぶのに対してメラリ族は板や台座、横木などを、体積の大きいものを運ぶからです。やはり差別ではないのです。
しかしケハテ族は、すべてのもの(契約の箱、机、燭台、そして香壇)をかついで運ばなければなりません。しかし、燭台以外の祭壇、供えのパンの机などにはみな、運搬するための、まさに担ぎ棒がついていたのです。それぞれ。これを馬に運ばせ落とした大事件が古代イスラエル王国でありました。彼らはこの運搬を、神様がこう仰られていたことをべつにこれくらい、と思って牛に引かせて牛が落としてしまい、ウザという人が死んでしまった。ひどい、と思うような事件でしたが、よくよくこうして見てみますと、神様は私達に正しい方法、私たちにどうしたら良いのか、いつも教えてくださることが見えますよね。
何より、重いものを担ぐことになるにしても、イエス様はこう仰っていましたね。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と。軛は牛2頭で負い、強い牛と弱い牛のペアになります。そうして相手から学ぶのです。
イエス様は神様であられるのに人間になられないとは考えず、人となって生まれてこられ、その道を示されたのです。平安を、昨日の分かち合いでみたように、永遠の命へと導かれたのです。そのためなら、私たちの重荷も痛みも、何より罪も関係ない、これら全てを背負い十字架にかかられ、死なれたのです、私たちの身代わりに。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の与えてくださった救いを受け入れる全ての人の罪は赦され、神様の子とされ、油・聖霊様が注がれ、永遠の命への道を導いてくださるのです。もうそれは始まっているのです。開かれたのです。
神様はあなたにはあなたへの最善を備え、何より御子イエス様の命とともにすべてをあなたに注がれ導かれる。時に不安なことがあっても大丈夫、道であり、真理であり、命であるイエス様があなたをどんなときにも導いてくださるから。どんな時でも、どんな道でも。あなたはこの神様にどれだけ信頼し、委ねますか?