ー本当の愛で内側を満たそうー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。』イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。主がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行なった。ついで主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものは主のものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。』」

民数記5章1−10節

 

自分の部屋、家、そうしたものはその人の外には見せない、本当の性格、本性などが見えてくる気がします。ただごちゃごちゃしていてはお客さんも入れられないし、管理は大変。まあその辺の話はともかく、私たちの内側はどうでしょうか。喜怒哀楽を持ってはいけない、という意味ではなく、私たちの内側を神様に聖めていただき、本来神様がイメージされ作られたあなたへと作り変えていただきたいものです。そこには神様の命があふれるから。

 

さて、↑はここまで見てきた人口調査の後、今度は人間関係、と言うよりも人について神様は語られていきます。↑の続きには夫婦関係の夫の妻への嫉妬、妻の夫への嫉妬などなかなか面白い、と言うよりも現実にある問題について神様はモーセを通して語っていきます。特に旅の途中だから、無理をしたり、閉塞感からうまく行かない、とか、逆に目的地についた後、開放感からいろんな問題が出てくる、それを守るために、神様は色々語ってくださっている事が見えますね。

 

私たちの周りにはどうしたらいいのかわからない問題も様々あります。しかし、私たちはここで忘れてはいけないのは、どんな問題であっても、神様にとって不可能はないのです。神様があなたを覚え、また助けてくださる。だから私達は神様に信頼しようではありませんか。

 

ちょうど先輩牧師さんのFBを見ていた時、ヘンリー・フォードがこのように言っていることを知りました。「信仰心の厚い人に突破できない災難はない。たとえ、一時不利に見えようとも、たとえ時間がいくら長引くように見えようとも、それでもなお信じて、なお闘わなければならないのである。それでも全能の神には不可能はなく、私たちにすべての苦難に打ち勝つことを忘れてはならないのだ」と。神様が突破させてくださる、その知恵も、力も、道も導いてくださる。だからこそ私達は、自分の目には小さなことでも良い、神様に祈り訪ね求めてみようではありませんか。神様は答えてくださるから。

 

話を戻して、まず神様はモーセを通して「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない」と語られます。追い出すように、というのもまた随分厳しいところがありますね。ただ、彼らはレビ記で見てきたように、ある一定期間が経ったり、癒やされればもとに帰ることができます。

 

また、特に今の時代を考えればわかると思いますが、感染症問題を見れば、その人が蔑まれることから守られること、またそれを全体に広げないという目的もあったのかもしれません。何より神様は、そうした問題に対しても解決の道を開いてくださっている。無視されない、という事。そして、神様がこうした悩み、病を抱えている人に対しても目を向け、心配されているように、彼ら、また私たちも、弱さを抱えている人にもまた目を向けたいものです。共同体、またあなたのいるところが、またあなた自身が神様の愛で満たされるように。

 

一方神様はもう一つ↑でモーセを通して「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものは主のものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のものとなる」と語られています。

 

ここで○○の罪について色々出てきていますが、レビ記の一番最初に見た時に、罪のためのいけにえは、神様に対して犯した罪を告白すること、罪過のいけにえは、他の人に具体的な被害を与えた場合において捧げるものということを見ました。

 

神様に対して犯した罪については、12弟子の一人ヨハネはその手紙に「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」と書き残しています。

 

↑では神様に対する罪について認めた場合しか書いてありませんが、神様との和解はとても重要なことです。そこにイエス様の血潮、十字架と復活による恵みが溢れていないからです。復活のイエス様が留まってくださっている、これ以上の恵みはなく、↑の最初のケースにあっても大いに励まされ、また助けられるでしょう。一方で、そんなものは関係ないと言っていたら、そこにイエス様が留まらなければ私たちはどうして生きていられましょう。神の御子イエス様が留まる以上に最高の恵みはありません。

 

人に対して犯した罪については5分の1を加えて返す、ということですが、利息、申し訳無さ、というのもあるでしょう。しかしそれ以上に、イエス様が罪を認める私たちに恵みを加えてくださる。5分の1どころの騒ぎではない。そんなもったいない、と考えるどころの騒ぎではない。神様が私達が罪を認め立ち返るとき、驚くべき恵みを加えてくださる。そうなったら↑の最初の話も、ここでの問題も、全て、神様の愛で包まれ帰られていくのではないでしょうか。神様の愛であふれるのではないでしょうか。私たちの内側が変えられ、聖められていくのです。

 

使徒パウロは「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と勧めています。

 

神様の恵みが、あなたの内側を変えてくださり、神様の素晴らしさが現される、神様が結ばせてくださる、神様があなたの内に働かれる時、イエス様の命を惜しまず与えてくださった神様があなたの内に御心を現される時、私達がする、思う以上に最高の愛を現してくださるのではないでしょうか。イエス様は十字架から神様の国の相続者の一人としてあなたを招かれた。私たちは私たちを貶める肉の行い、問題を御霊様によって聖めていただき、5分の1どころではない神様の大いなる恵みが、あなたの内側に、またあなたを通してあなたの周りに溢れていくことを切に願い求めようではありませんか。あなたの内側をご存知で癒やし、また新しくしてくださる、その神様のご計画に信頼し。