ギヴ・アンド・ギヴ | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

ギヴ・アンド・テイクなら多くの人が聴いたことがあるし、期待することでしょう。

これだけしたんだからせめてこれくらいお返ししないと、という思いがどこかにある。

別にこれは否定もしないし、良い文化の一つだな〜と思う。

私も職場を辞める時は、どんなところであっても、必ず何かしらのお礼のお品をお渡ししたり(たまに恩を仇で返されることもあったのですがそれもテイクか^^;)します。

 

ただ、ギヴ・アンド・ギヴはどうでしょう。誰がそんな事を期待するの?

私たちは文化的に「お返し」を考える習慣を持っていますが、外国に行くとあまりお返しを期待されていないことに驚かされます。

それは同時にお返しを期待できないということでもあります。

 

キリスト教の専門用語(私も1日の最後の分かち合いの中でよく使いますが)のように使われている「恵み」という言葉がありますが、これは「受け取る資格のない者に提供されている神様からの善意、祝福」という意味があります。

 

そして、その「恵み」は「お返し」の発想を適用するととても「失礼な態度」をとっていることになってしまいますね^^;こんな偉そうなことを言えるほど私もできていませんが。

 

ちなみに、日本でのお返しは、受け取ったものとほぼ同等と考えられるものを返礼品として提供することですよね。同等でないにしても、それなりの価値を意識してお返しします。でも、それは神様の恵みにたいしては、最初から無理です。

 

ですから本当に単純に「ありがとうございます」と受け取れればよいのです。

しかし、それが難しいんですよね。どうしてもお返しを考えてしまうから。

素直に、お返しを期待せずに、与えること、また、お返しを考えずに受け取ることができる関係は嬉しいですね。

 

「ギブ・アンド・テイク」が社会では当然のように考えられていますが、神様は私たちに対して「ギブ・アンド・ギブ」なんですよね。

そして、神様に愛されていると、その考え方と実行の嬉しさも味わえるようになるのかもしれませんね。神様に自身を捧げる、その中に神様は喜んで御心を働かせ、豊かな祝福を溢れ流れさせてくださる。

 

究極のギヴ・アンド・ギヴは十字架。

イエス様はご自身の命を惜しみなく与えてくださった。何の見返りも求めずにまず愛された。命をまず差し出された。それはあなたが悔い改めて神様のもとに帰ってくるためなら惜しまなかったのです。彼らが悔い改める保証はないし、実際歴史を見てもそう。

でも悔い改め立ち返る人には永遠の命・確かな神様の子としての特権が与えられる。あなたのうちにそれほどまでに愛された復活のイエス様が住まわれ、豊かに働かれる。何と感謝なことでしょう。私たちはいつもイエス様に「帰り、留まり、共に進ませて」いただこう。

 

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネの手紙4章7−11節)