ーあなたのことを覚え続けているからねー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子シェルミエル。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはヘロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。』これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

民数記1章1−16節

 

忘れない、覚えている、これを言われると嬉しいものですが、どうしても忘れてしまうもの。というよりも、片時も覚えている、忘れないでいる、などありえない話ですしね。最近はあまり聞きませんが、家族の絶縁何ていうこともありますね。そう言えば聖書には愛について、直訳すると、メモに取らない(記憶に残さない)という風に書かれています。神様の本物の愛はあなたのことをそれでも見捨てず、覚えていて、神様の恵みの中に招こうと待っておられる。神様の家族に。あなたはこの神様の愛にどう答えるだろうか。

 

さて、レビ記から引き続いて民数記に入るのですが、出エジプト記でエジプトの奴隷から神様がモーセを通して救い出し、かつて先祖たちに約束されていた土地に彼らは向かう、その旅の途中にあります。そして民数記に入り、↑の最初の一文を見て分かる通り、エジプトを出て二年目の第二月の一日になりました。

 

覚えている方もいるかも知れませんが、旅の途中、モーセが神様に呼び出されている間に、民はモーセが帰ってこないことに不安になったのと、神様に見捨てられたのか、自分たちの都合のいい神を作ろう、と言って、モーセの兄アロンに金の子牛の像を造らせようとし、しかも積極的にアロンはこれを作り、これこそ神だ、と宣言し、淫行をともなう祭りを行った、というとんでもない背信行為がありました。また、レビ記でもそのアロンの子たちがやらかしてしまったこともありました。

 

そんな民は切り捨ててしまえ、おいていけ、と神様は言わず、彼らをそれでも愛する民として見過ごせなかったのです。まあ、この民数記中盤辺りでとんでもない大事件が起こり、エジプトを出た20才以上の民は、ヨシュアというモーセの従者と、カレブという人以外はなんと、約束の地に入れなくなるのですが。そしてトータル約束の地につくまで40年彷徨う、ということになります。しかし、神様は彼らを見捨てることはなかった。約束の地に、子孫たちを導かれるのです。神様の愛は、約束は変わらないのです。

 

そう考えると、民数記、民の数とか見えますが、神様の愛する民を覚えられている記録とも見えてきますね。ちなみに民数記の英語のタイトルはNumbers、もともとの原語では「荒野で」ということばが表題に使われています。荒野でのイスラエルの民の出来事の記録、と言うだけではなく、神様のその中で現された御業の数々、愛の数々とも見ることができますね。

 

話は↑に進め、神様は「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない」と仰ります。要するに人口調査をするように、ということですね。

 

まずイスラエルの民の構成は部族の中に氏族があって、その中に父祖の家がある、そんな感じです。とはいいながらもこれらの言葉は全部同義語になるそうで、神様は見落とされない。監視する、という意味ではないですよ。むしろ神様は1人1人を忘れず、覚えておられ、その恵みを注ぎたい、またモーセたちの助け、共にいるようにしなければいけない、とあるように、そうしてただ数を数えるだけではなく、軍務云々の話から、どんな賜物、能力があるのか、どんなことが苦手で、どんな助けが必要なのか、それを違いが知り、助け合い、支え合う、そのため、人口調査を命じられるのでした。

 

ちなみに次の章に入ると男性だけで60万3千5百50人になります。すると、女性、20歳に達していない人、軍務につけない人、また老人などを含めたら240万人はざっと超えることになります。ある人はだいたい横浜市の人口くらい、と言っていますが。ただ、それだけの人数を誰か1人がすべて把握し、行政のように1人ですべての人を支えるには限界がある。だから神様はその助け手となる人達を↑で選ばれたのです。

 

それに、それだけいれば見落とすこともたくさんあります。そうでしょう?大規模な会社であったらもう、すべての社員のことを把握できている会社など少ないでしょう。あるところはあるでしょうけど。しかし、本当の必要は手が届きません、1人では。あるメガチャーチでも、やはり1000人クラスでさえ目が行き届かない、だから目安箱みたいなものにお祈りのリクエストがある人は入れて、牧師が気が向いた時にそれを開けて祈るとか。いいのそれで?と思いたくなりますよね。そのメガチャーチのある家族では、とても大きな問題を抱えていたのに、それを牧師たちは把握していなかった、そこまで目が行き届かなかったのです。

 

これが人間の限界。どんな問題、こんなんだって私達にできることには限界があります。しかし神様に不可能なことはありません。神様の方法で1人1人を助けてくださる、目を留め、必要に応えてくださるのです。それがまさに↑の部族の長(12部族の)、神様がこの人ならという人を選び、その人たちを通して支え合い、必要なことをモーセのところに持っていき、祈り、また神様の知恵、解決を求める。どんなにごちゃごちゃした状況にあっても、苦難困難、先行き不安定な状態にあっても、神様はどうしたらいいのか、神様の方法で助け示してくださるのです。神様がその中であなたのうちに御心を働かせてくださる。だからこそ、私たちはイエス様のところに祈り求めに行こう。その中で最善へと導いてくださるから。

 

神様が召し出したイスラエルの分団のかしらたちに役割が与えられていったように、神様は何かを通して必ずあなたを導いてくださる。それが、父祖が近親相姦という恥ずべきことを行ったところであっても神様は彼らをカウントしない、中に入れない、などとはせず、彼らをも迎え入れるように神様がおっしゃられたように、神様はあなたを忘れないし、見捨てない。

 

そのため、本来断絶されるはずだった父祖のいる氏族のように、神様から離れ歩む私たちを神様は救うため、もう一度神様の家族に迎え入れるため、私たちの罪の代価を御子イエス様に背負わせ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の救いを受け入れるとき、私たちは神様の家族に加えられる、その子とされる特権が与えられるのです。

 

神様が御子イエス様の命を持ってまで愛し招かれた、その神様がどうしてあなたを見放す、見捨てる事があるでしょうか。神様は民の数を数えるように命じていますが、その1人1人の内に数え切れないほどの恵みが注がれるのです。神様は苦難の中にいる人であっても神様はあなたを見つけ出してくださり、その恵みの中に招いてくださる。数えなさい、と言われたあなたを。神様はあなたのことを見逃さない。私たちは統べ治めめ、御子イエス様の命さえ惜しまない神様の愛に信頼し、委ね、歩ませていただこうではありませんか。あなたのために裂かれたイエス様の命、この愛の内に全てがある事を覚え。そこには数え切れないほどの恵みが待っているから。