ーいちばん大切な宝物ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。』以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。」

レビ記27章26-34節

 

あなたの宝物はなんですか?と聞かれると、答えは年代別に分かれるでしょう。環境にもよるでしょうが。うちの子どもでしたら、おもちゃの中からきっと選ぶのかな、と。ある人は仕事の成果とか、いろいろ挙げるかもしれない。結婚されている方だったら家族を挙げる人も多いでしょう。では、神様にとっては?あなたです。私です。私達一人ひとりは神様の宝物。私達はこのすばらしい関係の中でどう歩むでしょうか。

 

さて、↑はシナイ山でイスラエル、また私たちに向けられて語られた大事な言葉になります。そう、実はレビ記に入る前の出エジプト記からまだ旅は進んでいなかったことがこれだけでわかりますが、そう言えば覚えているでしょうか?シナイ山でモーセが40日40夜神様と語らっていた時、時間がかかっていたことを、また民が神様なんか信頼できない、と言ってモーセの兄アロンに金の牛の偶像を造らせ、これが自分たちを連れ出した、救ったんだ、と淫行を伴うまつりを行った事を。それでも神様は見捨てず、もう一度モーセとシナイ山で語られていたことを。

 

我慢できなかった、いぜんに神様が私達を幸せにしたい、と語りたいことは何日あっても足りない、ヨハネというイエス様の12弟子の一人は、この世のどんな書物にも神様の恵みは収めきれないとも老年になって書き残すのでした。どれだけ迫害を若い頃から受けてきても、神様の恵みはは変わらなかった、と。神様に不足はない、神様のうちに全てがある。自分たちが神になる、都合の良いように教えを作るのではなく、神様は私たちの幸せのため、日々私達の内に働いてくださっているのです。目に見えないだけで、私たちにとって当たり前と思っている中で神様はあなたにベストをもって導かれるのです。

 

考えてみれば、自分で作ったものがどうして自分を救い出すことができるでしょう。少なくとも自分で作ったのだから能力は勝りません。そしてそれによって支配されていく。自分たちが安心するために作ったはずが。しかし神様は人の手によって造られたのではなく、愛情を持って私たちを造られた、あなたを高価で尊い、愛する対象として造られたという事を忘れてはいけませんね。

 

話を↑に進めて、↑の前の昨日の箇所では誓願を立てる場合について語られていました。そこでは、年令や性別等に応じて捧げる額の違いがありました。と言うよりも神様はそれぞれに応じて賜物の違いがある、差別されるのではなく、神様に仕えたい、と願い出る中で神様は1人1人のをよくご存知で、彼らに神様が御霊を注がれ、助け、その中で神様の御心が広がっていくことを見ました。今度は自発的ではなく、一言で申しますと「神様のもの」ゆえに神様に捧げることについて言及されています。

 

神様はまず「家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる」と仰られます。

 

初子、人で言うなら長男、長女とかそのあたりでしょうか。それは主のものであり、捧げるように、と言うわけです。家畜ならわからないこともない。人間は?サムエル記というところでは、不妊の女性が神様に祈り、与えられるならその子を主に捧げます、と初子を捧げます。しかしそれは命をとる、とかそういう意味ではなく、神様に仕えるものとして委ねます、といういみでした。そしてその生まれてきたサムエルと言う子は神様に用いられていき、その子を通して神様の栄光、御心が部族に、また国家に現されていくのでした。

 

神様が独占、いいものを搾取する、というわけではない、私達が自分にとってのいちばん大切な宝物、と言うよりも、これは神様、あなたには渡せませんけどほかはあなたに委ねます、ではなく、私達自身を神様に完全に委ねる時、神様はそれに加えてさらに溢れんばかりの倉から恵みを注がれる、委ねきれない中で起こる結果以上の最高の御心が現されていくのです。特別なことだけではない、すべてのことにおいて。5分の1どころか、神様ご自身があなたの捧げた、不完全な私たちの内に働かれ、最善へと変えてくださるのです。

 

私達がどうしても勘違いするのは、献金をすると失われる、ないし逆にお金が何倍にもなって戻ってくる、と勘違いしやすいのですが、そもそも神様は私たちがお金を捧げなければ何もしない、できない方ではありません。そうでしょう?この天地万物は、人ができてお金を捧げてからできたのですか?違いますよね。

 

10分の1であろうがなんぼであっても、それが強制ではなく心からのものでなければ意味がないのです。それはカインとアベルが生贄を捧げた時に、カインの心を見て生贄を神様が受け入れなかったのと同じです。私たちは神様のもの、神様につくられたものですから。だから私達は私達をお返しする、その中に神様が豊かに働かれるのです。お金が何倍になって帰ってくる、じゃない、あなた自身を神様に委ねる、その中で神様が豊かに働かれ、さらに恵みが溢れ流れるのです。お金のために献金をするのではなく、捧げられた何かを通してその恵みは溢れ流れるのです。誰かのために祈るため捧げる時間をも神様は喜ばれ、祝福され、そこにとどまる、神様の倉に納められると言うよりも、さらに必要な人のところに、また恵みが注がれていく。

 

そういう意味で、何を捧げるとか、けちるとか、神様に捧げて何になる、ではなく神様にすべてを委ねよう。和足したちが何かをするのではなく、その捧げたあなたを通して、あなた自身をと御して神様は豊かにその恵みを注がれる、御心が、御国が広がっていくのです。

 

↑で何度か「買い戻すことができない」と出てきますが、買い戻す必要がないほどの神様の御心が現されるのです。なんだ、こんなものか、どころじゃないのです。神様は御子イエス様の命をあなたの罪の身代りにおしまず与えるため、十字架にかかられ死なれたのです。それほどまでに惜しまない方がどうしてどうしようもない事をあなたのうちになされるでしょう。むしろ3日目に蘇られたイエス様はそれを自分だけのものとはせず、イエス様の前に悔い改めるすべての人にも同じように新しくされる、復活の恵みに与らせていただける。その恵みは測り知れないものではありませんか。

 

最後に「共に聖なるものとなる」という神様の言葉でレビ記は締められます。私達自身は弱い。最善の捧げ物だとは言い切れないでしょう。しかし、イエス様があなたの身代りに命を捧げられた故に、私達はイエス様とともに聖なるものとされ(同等ではありませんが)る、この喜びを私達は忘れず、この歩みをイエス様とともに進ませていただこうではありませんか。イエス様があなたの歩みを守られ、聖を、恵みを注がれる。だってあなたは神様のいちばん大切な宝物なのだから。この神様の愛に私達は信頼し、委ね、歩もうではありませんか。