「『…もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。わたしはあなたがたの上に剣を臨ませ、契約の復讐を果たさせよう。またあなたがたが自分たちの町々に集まるとき、わたしは、あなたがたの間に疫病を送り込む。あなたがたは敵の手に落ちる。わたしが、あなたがたのパンのための棒を折るとき、十人の女が一つのかまであなたがたのパンを焼き、はかりにかけて、あなたがたのパンを返す。あなたがたは食べても、満ち足りない。…』」
レビ記26章23-26節
最近は様々な食料品を含めたものの値段が上がり、11月からまた更に上がっていくという。本当に厳しいところではありますが、生活困窮者の方はどうしたらいいのでしょうただ私達が忘れてはいけないのは、食物は誰が与え、誰が備えられたのか。あなたの衣食住を備えるのは誰なのか。この天地万物を創られ、あなたをも作られた神様です。私達はこの神様が与えてくださる一つ一つに感謝しつつ養われ、生きようではありませんか。あなたを無限の愛で満たされるのは、ほかでもない、神様なのだから。
さて、この章は祝福の約束で始まりましたが、従わないときに起こること、↑は病、不作・飢饉、解き放たれる獣の続きになります。今回は食糧不足の話。今回は最初の裁きの不作と違い、戦争が伴い、それによるインフレーション、そして極度の食糧不足に陥る形になっていきます。実際、後の時代、古代イスラエル王国がシリアに責められていた際、サマリヤの町が彼らに囲まれ、食糧難に陥る形となります。最終的には神様が助けてくださるのですが。
そう、神様は意地悪をしているわけではないのです。これまでも何度も悔い改めの機会を示されてきた。脱出の道も備えてくださっていた。神様に立ち返ること、神様の御手に委ねる、その中で回復させられていく。しかし、もしそれを拒めば当然神様から離れた道を進むことになるわけですから、苦難に陥るのは言うまでもありません。
1世紀に伝道をして回っていたパウロは「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」とその手紙に書き残しています。前半部分は結構有名、表現が違うだけで似たような言葉を聞いたことがある方もいるかも知れません。
ただ、脱出の道、というのは逃げ道ではないのです。神様が一緒にその先の栄光を、素晴らしさへと導いてくださる、という約束なのです。だからこそ、私達がどちらを向いているのか?神様から離れた道に進んで、自分で苦労するのか、神様と一緒に進んでいくのか。全然違いますよね。
↑で「もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。わたしはあなたがたの上に剣を臨ませ、契約の復讐を果たさせよう。またあなたがたが自分たちの町々に集まるとき、わたしは、あなたがたの間に疫病を送り込む。あなたがたは敵の手に落ちる。わたしが、あなたがたのパンのための棒を折るとき、十人の女が一つのかまであなたがたのパンを焼き、はかりにかけて、あなたがたのパンを返す。あなたがたは食べても、満ち足りない」と神様はモーセを通して語られています。
神様はここで剣や疫病、食糧難などについて触れていますが、神様はそんなひどい方なのですか?いえ、そうではありません。そうしたくないからこそ、毎度分かち合わせていただいていますが、神様は予めモーセを通して語られているのです。じゃなければ最初から彼らを疫病で打つなりするでしょう。しかし、神様はエジプトを疫病等の災いで打ったときでさえ、彼らが悔い改める猶予の期間を持っておられたのです。そしてだんだん、↑で7倍、その前も7倍、その前も7倍、とだんだんそれが増してきていますが、エジプトにくだされた災もそうだったのです。しかし、神様はイスラエルの民を守られた。
疫病は言うまでもなく体を蝕んでいきます。しかし神様はご自身の愛で、御心であなたのうちを満たしたいのです。あなたを苦しめる何か、蝕んでいく何か、何より罪を引き剥がしたい。それに支配されることは決して望まれないのです。
あなたに傷をつける剣ではなく、あなたを生かしたいのです。御言葉という剣を持って。そしてあなたのために戦ってくださる。この出エジプトの旅の途中何度も戦いがありますが、そのたびに勝利を収めさせてくださっているのは、イスラエルの民が強いからではない、むしろ屈強の国、また巨人族ともこの先戦いがあります。しかし神様はそのたびに勝利を治めさせてくださった。なぜ?あなたを愛しているからです。あなたに襲いかかる剣を、傷つけるなにかの露払いをされるのです。
パウロはまた「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とその手紙に書き残します。
昨日の分かち合いの中で取るべき武具、私たちを食い尽くす獣と戦うために御言葉の剣を取ることを分かち合いましたが、この神様の言葉は力がある。神様の言葉通りにすべてはなるのです。天地万物が神様の言葉によって出来上がったように。このパウロの言葉は一見恐ろしく感じるかもしれない。しかし、私たちが恐れるべきは何でしょうか。神様が一緒に戦ってくださる。ならば私達は神様の御前にひれ伏すべきではないだろうか。むしろ私達の弱い部分、関節や骨髄の分かれ目についてふれられていますが、そうした私達の弱さのうちに神様は完全に働かれるのです。そして、私たちに分別、何が正しいのか、導いてくださるのです。その力強い御手によってあなたを生かしてくださる。
だからこそ、私たちは、神様の道から離れるのではなく、神様にあれをして、これをして、ではなく、神様のみ心を求めたいものです。この力強い御手のもとにへりくだりたいものです。神様は決してあなたを過不足ある状態、倒れたままにはされない。あなたを見捨てず、立ち上がらせてくださる。あなたを満ちたらせてくださる、だからこそ、私たちはこの神様の愛の前にへりくだろう。
自分のお心はいつまで経ってもあなたを満たすことはできない。なぜなら自分のお心はもっともっと、と際限がないから。しかし、神様の御心は完全です。神様は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる方です。神様の口から出る一つひとつの言葉、御心、なされることにあって私たちは生かされる、神様のみ心が成し遂げられるのです。
だからこそ、私たちはパウロが「『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と勧めるように、自分が弱く感じることは恥ではない、むしろこの弱さを委ね、神様のみ心に飢え、完全な愛が、疫病でも剣でもない、御心がなる事をせつに祈り求めようではありませんか。
私たちを思い煩いや苦しみ、何より罪・サタンの手に落ちることがないよう、御子イエス様が私達の罪の身代わりにこれらすべてを背負われ十字架にかかられ、死なれた。そこまでしてまであなたを愛された、陰府に降ってまであなたを復活とともに引き上げようとされた。神の御子イエス様が。これほどの愛をあなたは受けているのです。
イエス様は全てに勝利され、あなたを神様の家族・子として迎え入れようとあなたを待っています。過不足のない、食糧不足とか足りないことがない、あなたをすべてに勝る喜びで満ち溢れさせてくださる。あなたを天の祝宴の前味を持って満たそうと待っておられる。私たちは神様と争うのではなく、あなたを飢え渇かせない命のパン、イエス様ご自身をいただき、生かされ、歩もうではありませんか。