ある画家の二人の友情 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

下の画像、これは「使徒の手」という、アルブレヒト・デューラー(ドイツ人)が1508年に描き上げたものです。みなさんはこの絵を見てどんなことを感じるでしょう。

ただの祈りのポーズだと思いますか?

 

実はこの画像、絵の背後には、とても美しい友情物語が秘められています。

この絵を描いたデューラーには、ハンスという親友がいました。二人とも絵を描く才能があり、将来は画家として立つことが夢でした。ところが、二人とも貧しくて絵を勉強するのは不可能に思えました。

 

ハンスはデューラーにこう言いました。

「デューラー君、君がまずイタリヤに留学するんだ。その間、僕がドイツに残って働く。そして君の勉強のために仕送りをしよう。やがて君が成功したら、こんどは僕がイタリヤへ留学するから、僕を支えてくれ。」

ハンスは来る日も来る日も、村の鍛冶屋でハンマーを振って働きました。そしてデューラーのために送金に励みました。

 

やがて数年後に、デューラーは押しも押されもしない画家になりました。「ハンス君、今度は君の番だ」。そういって握手をしたデューラーの手にびっくりしました。長い年月の鍛冶屋の仕事で、ハンスの手は固くふしくれたっていました。とても、絵筆を握れる手ではありませんでした。

 

「いいんだよ、デューラー。僕はこの手で君の勉強を支えられたんだから。これ以上うれしいことはないよ」。しっかりと握りあった手の上に涙がぽたぽた落ちました。その手、そのハンスの手を、デューラーは描きました。これが、有名な「使徒の手」です。

 

固く節くれ絶った労働の手、これこそ神の御心にかなう祈りではないか。

勤労奉仕のない祈りはむなしい。

祈りは努力。反対に祈りのない努力は寂しい。

 

ー使徒の手(アルブレヒト・デューラー)ー

 

最後のコラムを書いた人のコメント、そのものですね。口では心配はできる。祈っているよ、と声をかけることもできる。でも、実際に神様から何か示されたなら、あなたのできる行動、これが必要ではないでしょうか。それこそ昨日の投稿(1つ↓)のように、そのあなたの応答を通して神様は御心を、御業を現される。

 

同時に、一つ忘れてはいけない。御子イエス様も、人となって、同じように体の節々をつかれながらも、血を流し、涙を流し、命さえ惜しまず与え、愛している、と口で言うだけでなく行動にあらわされました。イエス様は今日もこの労働の手をもって祈り、またあなたを支えている。養っておられる。このイエス様の見てに導かれ生かされ歩もう。