ーそれでも養われるからー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。…』」

レビ記25章35-55節

 

世の中を見回してみると、本当に貧富の差、格差が大きいのが見れますね。神様は不公平なのか?そんな事はないんです。神様はどんな時でも養って下ださる。考えてみれば空の鳥をも養い、野の草さえ着飾らせて下さる神様です。私達はこの神様にいつも心を向けるのと同時に、同じ神様に愛されている者なのだから、示された時だけではなく、互いに愛し合い支え合う者でありたいですね。

 

さて、↑はヨベルの年の話の続きになりますが、「買い戻しの権利」のなかで特に貧しい人たちのケースについて神様は触れられています。かなり事細かに詳細にモーセに語り、民に伝えるように神様は訴えるのです。そう、神様は御目を、心を私たちに向けておられるのです。そして心配して下さっている。詳細にどうすべきか書かれているという事は、あなたの事、どうせ神様は私のことなんて理解していないでしょ、だからこんな事が、と思う私たちの思いを遥かに超えて心配して下さっている。その事を神様は↑で訴え、なお、困っている人たちがいるなら助けよう、と仰っているのです。

 

そういえば、古代イスラエル王国2代目の王ダビデは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と詩に残していますね。

 

自分たちで頑張って生きる、その前に神様ご自身が私達を伴い養わせ、休ませてくださる。例え辛い中にあっても、神様は離れず、たとえ敵前であろうと食事を整え助けてくださる。神様ご自身が「命の日の限り」慈しみと恵みを持ってあなたを養ってくださる、何と感謝なことでしょう。

 

↑は特に貧しい、困窮している人たちについて言及しています。まず、生活が成り立たないほどに貧しい人には、利息もつけず、その人と近しい人が養うように、と訴えます。部族・氏族が原則でしょうが、イスラエルの民全体にこの言葉が語られ続けている事を考えると、家族だから、とかを超えて助け合うことを訴えています。

 

何より神様は私たちと近しい人となって様々な苦難困難の中にあって養われるのです。あなたを家族として迎え入れてくださり、何かと交換条件、というならイエス様のいのちを持って私たちが払う、返すべき全てを身代りに支払ってくださったのです。そして、このイエス様の十字架と復活を受け入れるすべての人の借金、罪の贖いを一気に引き受けてくださり、家族として迎え入れてくださるのです。

 

話を進め、さらに貧しくて誰からも取り計らってもらえない、そのような人を奴隷としてはいけない、というのです。もうどうにもならないから、どこかに身売りするしかない、とならないように助けるように、と。そして土地も財産も何もかも失ってしまった人が、ヨベルの年には、受け入れてもらったところで賃金をたくわえ、財を手にして、自分の先祖の土地に帰ることができるよう、神様はご配慮くださっっているのです。

 

誰にも見向きもされない罪人さえイエス様は取り計らってくださる。共に食事をし、共に十字架にかけられていた死刑囚さえ憐れみ、悔い改めた人を共にパラダイスに引き上げてくださったのです。そして統べての苦しみ、涙はすっかり拭い去られる。何より神様が養われる中で私たちはあるべき姿へと回復していく、神様ご自身がそれでも私たちを養ってくださるのです。神様の子、家族として。

 

そして最後に「もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある」と神様は訴えます。要するに異教徒の文化に捕らえられた場合、ですが、もっとわかりやすく言うと、どうにもならない困難な状況の中に閉じ込められたなら、その人を取り戻すように、というのです。それは神様がまさにエジプトから彼らを救い出した、私たちを救い出す神様の御思いにあるのです。

 

最後に、「わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である」と語られていますが、イエス様が私たちに仕えるものの立場となってこられ、私たちを救い出すために人となって生まれてこられ、私たちの神様となられたのです。私たちはこの神様が永久に養ってくださっていることを、どんな状況にあっても覚え、祈り、また神様のご計画の器として用いていただこうではありませんか。その中にあって神様の栄光が豊かに現されていくから。