ー休んでも良いんだよー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。…』」

レビ記25章1-7節

 

私が高校性のころまでは土曜日も授業あり、という結構大変な状態でしたが、今はだいたい週休2日制。仕事も。体を休める、脳を休ませるということ、大事ですよね。仕事もそうですが、そこまで働き続けなければ生きていけないのか。ただ、私たちは一つ忘れてはいけない。神様はあなたを愛し、あなたを日々養ってくださるという事を。神様はあなた自身を愛し養われるから。この神様の養いに憩い、生かされ、歩もうではありませんか。

 

さて、例祭の規定や事件の後再びモーセを通して神様は今回は土地の安息について語られます。正確には安息年、ということになりますが「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる…」と。

 

ようするに6年間は収穫してもいいけど、7年目は休ませましょう、ということ。そんな事をして大丈夫なの?と心配しますよね。しかし安息日を神様「が」聖なる日としてくださる。安息日に入る前には安息日の文を含めた2倍のマナが与えられるように、神様の恵みの日、聖なる日として神様「が」定められた。祝福の日として、だから神様は十分に民に備えられていたわけです。

 

考えてみますと、種を植えなければ収穫を得ることができませんよね。そうすると、7年目に何も植える、蒔かなければ8年目は何も食べることができないのは?と言うことになるわけです。実際に食べられるのは9年目からになりますよね。

 

話はそれますが、私は今心臓病のために療養期間に入っています。ある時になれば明ける日がくるでしょう。しかし、いくら仕事が見つかっても、前の月の給料がない分だけ、1か月分はどうにもならなくなるわけです。しかし、療養期間中に体を休ませ、次への備えになるわけですよね。すべてを与えてくださるのは神様なのです。不作、不毛だ、と思う中に神様は備えてくださっているのです。いまイスラエルの民と神様が共におられるように、あなたとともに神様もおられるのです。

 

そこでどのように植物が、食べ物ができたのか、天地創造の時を思い出してください。創世記に「神は仰せられた。『地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。』そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。…神は仰せられた。『水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。』神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。『生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。』…は仰せられた。『地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。』そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。…神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』そのようになった」とあります。

 

神様がすべてを創造されたということ、しかもそれは長い期間を成してではなく、一瞬にしてそ、人が創造される前にすべてを備え与えてくださっていたのです。その同じ神様がどうして安息年があったからといって私たちを飢えさせることがあるでしょうか。うめよ、増えよ、地を満たせ、と仰られる神様がそうさせて下さるのです。私達が神様にすべてを明け渡し委ねる中にあって、神様が十分に備え、あなたの内をも養ってくださり、なお多くの実を結ばせてくださるのです。

 

では神様のところには量に限界はあるのか?神様はマラキという預言者を通して「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。―万軍の主は仰せられる―すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と語られています。

 

確かめるまでもなく「宝物庫」から神様は溢れんばかりの食物、あなたを養うものがある。たとえ神様にすべてを明け渡そうとも、すべてを失ったように思えても、神様がその宝物庫を持ってあなたを満たし、祝福を天の窓を開いて注がれるのです。不作ではなく豊作、喜びが与えられるのです。

 

神様は↑の最後で「地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる」と。あなただけではなくあなたの周りにまで御心、祝福が広がり、それを皆で味わわせていただけるのです。

 

神様の導かれる新しい土地は神様が与えてくださる所です。それは知らないこともたくさんあるかもしれない。しかし、この先偵察に行った際には、巨人族が住み着いていても無事に帰して下さり、大人2人で抱えなければ持ってこれないほどの大きなぶどうの房を偵察隊は持ってきたのです。もう神様は備えられているのです。与えると仰られていますから、たとえ巨人族がいても神様がそこを新しくしてくださるのです。

 

神様は私たちにすべての面において備えてくださっている。何より十字架の死と復活による救いによって、イエス様の命をかけてまであなたを救われた、そこに神様はどれだけの祝福を用意しているだろう。神様があたらしくされた私達のうちに実を結ばせてくださるのです。どうにもならないような期間であっても神様が養い、新しいあなたと変えられた時、なお神様は私たちの想像しない実を、祝福を溢れさせてくださるのではないでしょうか。困難な地にあっても。なぜならあなたとともに進まれる、住まわれるのは神様なのだから。

 

神様は約束の地に入ったら何もしない、与えない、とは仰っていない。神様は備えてくださる、と↑で約束されているではありませんか。私たちにとってはある意味で安息年はあまり関係ないのかもしれない。しかし、私たちは神様神様言っている場合ではない、とあくせく自分で、自分の人生を形作るという労働を続けるのではなく、私達自身を神様にお返しし、委ねようではありませんか。神様があなたの内に豊かな祝福、実を結ばせてくださり、それを味わうようにさせて下さるのだから。神様が結ばれるどのような期間にあっても共におられるその約束に期待し、自分で頑張る心を神様の前に、十字架の前に置き、委ねよう。そして新しい神様の恵みの年、命のうちを歩ませていただこうではありませんか。