「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならいモレクを慕って、淫行を行なうみだらな者をすべて、その民の間から断つ。霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行なうであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。…』」
レビ記20章1-9節
もし、愛する子供が「パパ、僕は道路の真ん中で縄跳びをしたいんだ。パパが僕のことを本当に好きなら別にいいでしょう?」と言ってきたら、あなたならどう答えますか?ないし、どうしますか?愛するからなんでも良いよ良いよ、と言いますか?むしろ守るために、躾というか、危険であることを教えますよね。神様は語られる、なんで?あなたを愛しているからです。あなたを命の道に導くためです。私たちはこれは自分にあう、これは合わない、と仕分けするのではなく、純粋に神様のみ言葉の乳を慕い求め、これによって養われ歩もうではありませんか。
さて、↑を読むと、非常に厳しいことが書かれています。この続き(明日見ますが)にも刑罰がかなり細かく記されています。出エジプト記の律法の中にある死刑制度の箇所で分かち合いましたが、神様はむしろ私たちを守るために、予め語られているのです。そうならないように、そこに聖はない、いのちはない、むしろ聖なる神様が注がれる恵みを受けてほしい、そういう訴えがまさに↑なのです。そして、同時に神様が私たちを心に留め、守ってくださる、その御思いも見えてくるのではないでしょうか。
ということで話を↑に進め、神様はモーセを通してまず、「イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならいモレクを慕って、淫行を行なうみだらな者をすべて、その民の間から断つ」と、いきなり強烈な言葉を語られます。
殺されなければならない、石で撃ち殺されなければならない、神様が顔を背け、民の間から断つ、見なかったことにするのもだめ、と。相当強烈な話です。しかし、この「モレク」という存在が何者なのか、これを知らないと、なぜ神様がここまで言わなければならないのかわからないので少し解説しますね。
「モレク」というのは雄牛の頭の形をした青銅の像で、カナン、いまイスラエルの民が目指している地域の宗教の総称であり、アモン人の神でもあり、「ミルコム」とも呼ばれます。モレクを礼拝する者は、自分の子ども(乳児)をいけにえとしてささげて焼き殺したりしました。もう、これだけでゾッとしますよね。そんな事を強要する、今の某カルト団体のレベルを下手をしたら超えています。そこまでいかなくとも、その燃えるモレクの両腕に、生まれたばかりの赤ちゃんをのせて、赤ん坊をささげ、太鼓などの音を鳴らし、赤ちゃんの泣き声をかき消すのです。とんでもない話です。
それらは豊穣を願ったり、何かの誓願のために。さらには、それに淫行もつきまとう。それゆえに、もう無茶苦茶なんです。なんにもわからずそれを強要される子供を考えて、あってはならないこと、というのは言うまでもないでしょう。それがなにか良いことをもたらすのか?とんでもない。
この偽神、息もしないただの「物」は破壊的行為をもたらします。古代イスラエルの歴史において、晩年のソロモン王がこの「ミルコム」に従い王国分裂のきっかけを作りました。そばめと奥さん合わせて1000人いた彼らの機嫌を取るために、結局そのような礼拝場所を作り、民の心を神様から少しずつ引き離していったのです。
それだけではありません。南ユダの王アハズ王の時代にもエルサレムのベンヒノムの谷というところでモレク礼拝がなされました。この残虐な「忌みきらうべきならわし」はさらに、アハズ王の息子であるマナセ王もしています。結果、バビロン捕囚が決定的になるのでした。せっかくアッシリア捕囚から免れた南ユダ王国が。
神様は私たちを生かす方、しかし「物」は自己満足にしかならず、結果をもたらさない。神様はいのちへ導かれるのです。霊媒や口寄せの話も↑にでてきていますが、そこには悪霊も働けば、口寄せもないわけではないのですが、仮にできたとして神様にまさる何を語ることができるでしょう。へたをしたら、エヴァをそそのかしたサタンのように、私達の弱みに悪霊がつけ込み、神様から引き離してしまう。
それこそ、神様が忠告している「殺されなければならない、石で撃ち殺されなければならない、神様が顔を背け、民の間から断つ、見なかったことにするのもだめ」、これを私達自身が神様に向けてしていることになりませんか?神様に石を投げ、顔を背け、自分の人生から断ち切って、神様がせっかく導こうとされてもそれを見なかった、語られても聴かなかったことにする、自分に合わないから。私たちは神様を侮ってはいないだろうか?
神様は、私たちを生かすためにまず語られているのです。更正とよく言いますが、むしろ神様は聖なるものとしてくださる、と約束されているのです。汚れた、罪というレッテルを貼られたものではなく、神様の家族として、また聖なる神様の恵みが豊かに注がれる、注ぎたいのです。神様の子と言うレッテルと言うか、特権をお与えになりたいのです。
神様ははっきりと「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」と語られています。本当の聖は神様のうちにしかありません。その神様のものとさせていただける、神様の恵みが注がれ、その聖なる御霊が、御力が、あなたのうちに注がれるのです。なんと幸いなことでしょう。
最後にあるように、呪いたくなるようなことだってときにはあるかもしれない。しかし、その呪いをひっくり返すほどの神様の恵みが注がれるのです。最初から語らず、それらのことをしたら罰するつもりなら、このように厳しいことを語ることはないでしょう。しかし、あなたという人が、神様がくださる聖から引き離され、傷つけられ、破壊されていく事を良しとできない、だから神様は語られる。いや、語られるだけではなく、その罪を御子イエス様に全て背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架と復活の前に悔い改め立ち返るなら、私たちはもはや罪に支配されたものではなく、新しいもの、聖なるものとされる、神様の家族とされるのです。血の責任をイエス様が負ってくださったのです。
私たちは自分自身をささげる相手、心を注ぎだす相手を間違えてはいけない。あなたを聖なる者としてくださる神様に、御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様の御前に立ち返り、この恵みに歩ませていただこうではありませんか。刑罰からいのちへ、汚れから聖へ。今こそ私達はこの神様の御前に進み出ようではありませんか。神様はあなたに命を、恵みを注がれる方なのだから。