ーすてきな関係1:尊敬ー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。…』」

レビ記19章1-2節

 

昔の某ドラマで、人と人は支え合って生きている(「人」という漢字を使って説明して)と教師役の人が言っていましたが、確かに日とは一人では生きていけない。神様も、だからこそアダムにエヴァを与えられた。エヴァからしてもアダムという人に支えられ、生きていた。互いに支えられながら。でもそれは、相手を召使いとか、助手としてではなく「助け手」、それぞれの役割、賜物をもって支えあっていたのではないか。だからサタンの誘惑まで罪をなすりつけ合うことはなかった。そういう意味で、互いへの尊敬、それと同時に、私たちは神様の助けがあって本当の意味で生きていける。私たちはこの豊かな交わりの中に生かされ、歩もうではありませんか。

 

さて、19章に入り、生贄などの話から、今度は私達の具体的な歩みについて神様は語られていきます。そもそも神様の言葉、というと縛り付けられる、というイメージを持つ人もいるのですがそうではないのです。実は約束の地に入る直前、モーセは神様に導かれ「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令―おきてと定め―である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう」と民に告げます。

 

神様の願いは、私たちが本当の意味で「生き」、本当の意味で「しあわせ」になり、本当の意味で「長く生きる」こと。そうして神様の恵みが溢れる「乳と蜜の流れる地」で豊かに生かされる、息させていただけるのです。それこそが神様の願い。

 

ただ命令をし、それに無理やり従わせる、そんな関係ではない。神様の願いはあなたが幸せになることにあるのです。宗教とかを見ているとそうした誤解が生まれるのですが、そうではありません。神様があなたを生かし、励まし、力づけ、養い、導かれるのです。

 

↑に話を進め、まず神様はモーセを通して「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」と語られます。きよさを保つ、なにか浮世離れした生活をする、隠遁生活をする、という意味ではありません。神様のくださる聖さ、それを求める、その中に生きること、それを訴えているのです。それは何か頑張って修行して得られる、とかそういうものではありません。

 

神様の願いは先程も分かち合いましたように、私たちが幸せであること。幸せは一人ではなれない。してくださるのです。訴えられた神様が。何か罪、思い煩い、そうした不完全なものではなく、神様「が」くださる幸せ、どれだけ素晴らしいものか、私たちは想像できないほど深い神様の愛が注がれるのです。

 

そう、見えてきたでしょうか。十戒の時に、十戒はほとんど禁止ではなく、願望的未来形が使われている、「shall」が使われているということを説明しましたが、実はこの神様の訴えも、shall、願望的未来形が使われているのです。面白いですよね。誰の願望ですか?神様の願望です。つまり、神様は聖であるから、「あなたがたは聖なるものとなるだろう」と仰られているのです。神様が聖くしてくださるのです。

 

確かに私たちは不完全です。自力で完全になることなどできませんし、完全な方は神様しかおられません。だからこそ、最も聖なる方、万軍の主、神様に私たちは委ね、従う(首根っこを捕まえて無理やり従わせる、という意味ではなく)中で、私達は髪様の目組の中に生かされるのです。

 

イエス様は「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と仰られました。自分では完全にはなれない。しかし、完全な天の父なる神様が働かれる、求める中でその完全な力が働かれるのです。その時、パウロがその手紙に「主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる」とか「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」と手紙に書き残します。

 

変えてきただく、その中で私たちは聖くさせていただけるのです。この世の思い煩いや様々な問題は確かにある。でも仕方ないよね、と諦めるのではなく、むしろ完全な神様に委ねる時、もうこの世の思う異煩いや罪、様々な問題に拘束されることはもはやない、真理なる神様はあなたを自由にされる、解き放ってくださるのです。本来の命の道に。神様が、敏速に成してくださる。私たちが神様の御言葉、神様ご自身を求める中で、神様が弱さの内に完全に働かれ、強くしてくださるのです。

 

そういう意味で、神様は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのですから、私たちは、イエス様の力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りたいものですね。

 

とはいえ確かに、神様のなされることはぼんやりしているように感じて良く分からない、という方もいらっしゃるかもしれません。それはわからないこともありませんが、今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、やがてイエス様と顔と顔とを合わせて見ることになります。その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになるのです。

 

それだけではありません、完全な者としていただき、また慰めを受け、一つ心にしていただき、平和を保たさていただく、その時、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。あなたは一人ではないのです。神様はいるんだかいないんだかよくわからない方ではない、むしろ私達の兎地にその御心を働かせてくださるのです。それは私たちがしようとすること、想像しうることを遥かに超えた大いなる御心です。すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父・神様から下るのです。神様には移り変わりや、移り行く影はありません。

 

その究極の愛が現れたのが、まさに十字架ではありませんか。神の御子たるイエス様、どうして十字架にかからなければならないのですか。何の罪もない方が。天に留まっていればこんな目に合わないで済むはずなのに。しかし、神様は私たちがいのちを得るためなら、聖なるもの、命あるものとなるためなら、イエス様を惜しまなかった。イエス様を人として生まれてこさせてくださり、私達の内に住まわれ、その愛を惜しむことなく注がれ、また癒やされ、導かれた。悔い改めに導かれた。

 

そして、何より、それでも裏切る私達を、不完全な私達をもう一度神様の子として回復させるため、十字架に私達の身が割にかけられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、私達の墓を開かれ、イエス様の救いを受けいれるすべての人を引き出してくださるのです。神様の子として受け入れていただける、その特権を得る、その御心にあって聖なるものとされていくのです。神様の御心、御力によって私達は神様の驚くべき栄光を見させていただけるのです。私たちは弱い、だからこそこのイエス様のくださる聖なるすべてを受けいれ、本当に生きたものとしていただこうではありませんか。イエス様はあなたを世の終わりまでともにいようと、あなたを招かれている。