「『…アロンは会見の天幕に入り、聖所に入ったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。罪のためのいけにえの脂肪は、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営に入ることができる。罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営に入ることができる。以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。』モーセは主が命じられたとおりに行なった。」
レビ記16章23-34節
結婚式などで、「病める時も…」その愛を誓いますか?と宣誓する場面がありますが、まあ大概それが完全に守られていることはない。と言うよりも完全な愛を持ち合わせることなど人にはできない。どこかで自分の利益を求めてしまう。それは夫婦に限らず、どの関係においてもそう。でも神様の愛は完全。永遠。御子イエス様のいのちさえおしまず与え、あなたを得以遠の命へ、永遠の愛の中に神様はまねこうとされる。あるときだけではない、順境の時も逆境のときも主が共に、世の終わりまで、その先に至るまで永遠にあなたを養い導かれる。私達は今日、この神様の愛に立ち返り、この内を歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は年に一度の大贖罪の日の話の続きです。↑の直前までは、アザゼルという山羊を1頭ほふり、1頭は荒地へ放つ(戻ってこれないように)ことによって、罪が神様の御前に赦される、もっというと、この生贄を捧げに来る日とは、この赦された恵みに感謝し、神様に立ち返り歩む事を神様は望まれていたのではないかな、と思う。
イエス様のされた例え話の中で、こんなものがありましたね。「イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、【どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします】と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、【借金を返せ】と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、【もう少し待ってくれ。そうしたら返すから】と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。【悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。】こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」という。
1デナリは1日の労働者の賃金分くらい。例えば1日の日給が8000円と仮にすると、最初に出てくる借金をしている人は4800億円。一方でかしつけていたそのしもべはせっかく赦され免除されたのに、800万円を免除はともかくとしても待つことさえできずに牢屋に入れ、返させようとしたわけです。なんとせこいというかなんといいますか。800万円も確かに多額と言えば多額ですが、それでも4800億円から考えれば、どうしてせめて待つことができなかったのだろう。
神様はなにが何でもむしり取ろうとはしなかった。もうアザゼルのように忘れる、もう思い出さないよう決断された。いくら王と言えども、それだけの借金をチャラにするなんてありえない。しかしそれでも愛を受け、自分がどれだけ愛されているのか、神様がそれでも自分を養ってくださっている喜びに生きる時、800万円という数字を抜きにしても、必要を十分与えてくださる、という確信に私たちは生きるべきではないだろうか。
↑に話を戻して、これまでの儀式を終えたら、アロンは亜麻布の装束を、元の装束に戻します。なんで最初からこれを着ていなかったのか。本来罪のある私たちを神様はもう突き放す、それこそアザゼルのように神様のところから遠く引き離されてもおかしくないはずだった。しかし、神様はそれでも遠く離れ、辛く悲しく、暗闇の中を、罪の中を歩む私たちを見捨てることができず、イエス様をあの大祭司の装束から、普通の祭司の装束、白の亜麻布の装束に変えたように、神の御子でありながら人となって生まれてきてくださったのです。
そして十字架に私達の罪も汚れも、思い煩いも一切背負われかかられ、死なれ、葬られ、そしてその装束は復活とともに脱ぎ捨てられ、栄光に満ちた姿に変えられ、私たちも、このイエス様の十字架と復活による救いを受けいれるとき、私たちは古い自分を脱ぎ去らせてくださり、神様のことされる、栄光の衣を着させていただけるのです。神様の家族へと招き入れられるのです。アザゼルを解き放った人が身を清め、宿営に戻されたように、復活のイエス様は罪を赦され、あなたを迎え入れてくださるのです。
12弟子の一人、使徒のペテロは手紙に「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」と、書き残しています。先程のとてつもない借金をしていた人のようではなく、これだけの愛を受けた今、私たちはそうした神様とこの問題は別、と疑う心を置き、神様の恵みにあって、あらゆる点で救いを得ていく、成長させていただける、恵みの内に養われ、導かれるのではないでしょうか。
年に一度のこの大贖罪日、それほどまでに私たちは神様については離れ、離れては問題が起きるとつく。だから当時の彼らは年に1度大切な贖罪を行う必要があったのです。しかしイエス様の愛は、救いは完全であり、永遠の約束なのです。なにを不安に思う必要があるでしょう。あなたのために命さえ惜しまず、その命を差し出してまであなたを愛された、その愛によって実現される御心はどれだけ素晴らしいものか。
私たちは一切の主にと纏わりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。イエス様という最高の伴走者が、あなたと共にどんなときも天の御国にゆくまで導かれるから。