ーきれいにしましょうねー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…衣服にツァラアトの患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、その患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどんな皮製品でも、それはツァラアトの患部である。それを祭司に見せる。祭司はその患部を調べる。そして、その患部のある物を七日間隔離する。七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のツァラアトで、それは汚れている。羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、その患部のある物は焼く。これは悪性のツァラアトであるから、火で焼かなければならない。もし、祭司が調べて、その患部がその衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離する。祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べる。もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れている。それは火で焼かなければならない。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食である。祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現われたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もしその患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。』以上は、羊毛あるいは亜麻布の衣服、織物、編物、あるいはすべての皮製品のツァラアトの患部についてのおしえであり、それをきよい、あるいは汚れている、と宣言するためである。」

レビ記13章47-56節

 

今の時代特にそうですが、清潔に保つって大事ですよね。でも、もう一つ肝心なのは心のきよさというか、相手を侮蔑の目、裁くような目で見ないというか。神様は私達を高価で尊い、最高傑作に作ってくださりました。それなのに私たちはどうして侮蔑などできましょう。神様は、傷つき倒れても、立ち上がらせ、洗い清めてくださり、新しい衣を着せてくださる。私たちはこの神様に生かされ今日も歩もうではありませんか。

 

さて、↑はツァラアトという皮膚病の話、その続きになります。今日の箇所では、今度は身体のほうではなく、主に衣類に関わるツァラアトの話になります。そう、ここの辺りから、昔このツァラアトをまとめてらい病(今では差別用語)と使っていたのがおかしい、という事がよく分かると思います。↑を見ると衣類にツァラアトが現れることが見えてきますが、それ、病気ですか?衣服が汚れているから病気、なんて言ったらいじめ以外の何物でもないじゃないですか。私たちは聖書を見るとき、自分の価値観やこの世の価値観に合わせるのではなく、神様の視点で診させていただく、祈り、導いて頂く必要があるのではないでしょうか。

 

話を進めて、まず神様はここでは「衣服にツァラアトの患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、その患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどんな皮製品でも、それはツァラアトの患部である」と語ります。

 

さて、このツァラアト、人間の病気ですか?いえ、これはもう明らかに違います。これは誰でも知っている、カビです。要するに何らかの理由で服を洗えない、かびてしまう、そんな状態について述べているわけです。まあ、私たち自身、神様から作られ与えられたこの体、清潔に保つということは大事ですが、どうにもならないこともあります。気象状況とか、自然災害、貧困問題、様々。私達の心もそうですね。神様にいつも点検していただきながら、いつも完璧なんて無理なんだから、

 

イエス様は「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか」と仰られました。

 

でも物理的な梁など目にはない、それを取り除く、弱さ、問題、痛み、そうしたものを本当の意味で取り除く、洗い聖めることができるのは神様だけです。だからこそ、↑で差別ではなくアドバイスをされているのです。カビ、それを放置していたら、その服を着続ければどうなるかわかりますよね。また、かびた食べ物を食べるものどうようですよね。その衣類は高級なものであろうと何であろうと燃やさなければなりませんでした。

 

でも、明日から困るじゃないですか、燃やしたら。そうじゃないんです。神様が与えてくださるのです。イエス様は「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と仰られました。

 

神様はその日その日十分に備えてくださる。むしろ、神様は新しい服を、私達を洗い聖め、着せてくださるのです。一昨日分かち合った中で、汚れているという状態から、きよめられた!と宣言できるように神様が変えてくださる、と見ましたが、神様は私達のこれまで見てきた身体を含め、あなた自信を心配してくださっているのです。だから、悲しみや痛み、何より罪が広がり、ついには腐食していくことを何よりも心配されるのです。

 

本来広がってきたものは、焼き払うなり、切り取るなりしなければなりませんでした。ちぎり取るなりされる必要があったのです。しかし、イエス様はこうした律法を成就、その身に受けるために、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」と仰られたように十字架にかかりゆくのです。別にこれくらい、と思う小さなことであろうと、イエス様が「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」と仰られたように、確かに引き受けてくださったのです。小さな、弱い私たちを。

 

そして十字架に進み行き、私たちの受けるべきものを身代わりに全て背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし、3日めによみがえられたことによって、私たちに救いの道を開かれました。すべての罪、すべての思い煩い一切にイエス様が勝利してくださったのです。

 

そして信じうけいれるすべての人を神様のことして受け入れられる、その特権を与えられ、今や聖霊様の住まわれる聖なる宮とされたのです。もはや隔離される必要もない、神様の永遠の愛の中に、いのちのなかに招き入れられたのです。私たちは今日、このイエス様の愛の前にどのように応答するだろうか。

 

12弟子の一人で、使徒だったペテロは手紙にこう勧めます。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と。神様はあなたを今日もその目に留めておられ、神様の力強い御手の中で守られる。私たちは自分のうちにある不安や悩み、また罪、これらをすべて手の前に委ね、新しくしていただこう。主はあなたを新しい、聖い最高傑作へと導かれるから。