ー正しい習慣へー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼らはイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。』イエスは彼らに言われた。『花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。』」

ルカによる福音書5章33-35節

 

習慣というのは恐ろしいもので、それにとらわれてしまう。それが良い習慣なら良いのですが、悪い習慣だと、本来あるべき恵みから離れてしまう。あの人はこうしている、ではなく、あなたはどうしたいのか、これは非常に重要です。神様はあなたを愛しておられ、いのちの内に導きたい。あなたは?

 

さて、↑は取税人レビ(マタイ)がイエス様と出会い、何もかも捨てて、イエス様について生き、食事をしていたときに宗教家たちがあれこれいちゃもんを付けてきた、その中でまず最初にイエス様は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と彼らに、いやそこにいる人達も含めて語ったのでした。病人ももちろん癒やされますよ?これまでの章の中でも見てきましたよね。

 

イエス様は罪人だと知らずにいる、あれもこれも守っているよ、と気づかない人、そんな人達を本来ある恵みの内に招こうと、悔い改め(方向転換というふうにも訳せます)に導かれに来たのでした。怖いのは、医者を必要としているのに医者を求めないこと、暗闇の中にいるのに、辛い中にいるのに、まあこれでいいや、でいること、それが一番怖い。現状で満足して。でも神様から離れてどうして私達はいのちある歩みができましょうか。

 

そんな中、外で様子見をしていた宗教家たちが「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」といいます。要するに、自分たちは断食をしている、あのヨハネ(バプテスマのヨハネ)でさえ断食し、祈りもするのに、どうしてあなたのところの弟子はしないんだ?というのです。

 

旧約聖書の方でも、実際断食のことについてはでてきます。イエス様もサタンの誘惑を受ける時、40日40夜断食していましたから、断食自体が悪いことではありません。祈ることもイエス様は早朝からしていた、夜中でもするときはあった(十字架に掛かる前など)、祈ることは間違いではないですし、イエス様も祈りを教えられた。じゃあ何が問題だったのか?

 

私はこれだけのことをしているのだから、罪人ではない、あなたは必要ない、という思いが彼らの中にあったのです。せっかく花嫁(イエス様)が来てくださっているのに、断食・イエス様の恵みを、愛を拒むのはもったいなすぎる。イエス様は、前回も分かち合いましたが、この食事会にイエス様が本質的にはレビ、また彼らの友人を招かれていたのです。宗教家たちも、中に入っておいでよ、とイエス様は招かれているのです。あれをしているから自分には関係ない、と行いに縛られ、自己満足に縛られ、世の風習に縛られ、本来与えられるはずの神様の恵みをいただかない、なんともったいない。

 

やがてイエス様が「その時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」と、恵みが取り去られる日が来る。終わりの時が来るとき、本当の悲しみの断食のときとなってしまう。しかし、彼らをまだ拒否していないように、イエス様はあなたを招かれている、食事の席に。イエス様の恵み、愛、御力、御心が豊かにあなたの内に表される。

 

イエス様はあなたを花嫁として迎え入れるためにあなたの罪を取り払うべく、身代わりに背負われ、十字架にかけられ、罰せられ、死なれたのです。十字架上で罵られようと、彼らの罪、私たちの罪を赦してください、と神様に懇願しながら。しかし3日めによみがえられたことによって、この救いをうけいれるすべての人を招かれるのです。断食ではない、真の食事、命の交わりに。私たちは今日、このイエス様の招きに応じ、イエス様の下さるすべての恵みに感謝し、生かされ、歩もう。