「『…男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはかいせんで、頭またはひげのツァラアトである。祭司がかいせんの患部を調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患部を七日間隔離する。七日目に祭司は患部を調べる。もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、その人は毛をそり落とす。ただし、そのかいせんをそり落としてはならない。祭司はそのかいせんの患部をさらに七日間隔離する。七日目に祭司がそのかいせんを調べる。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。しかし、彼がきよいと宣言されて後に、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、祭司は彼を調べる。もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はない。彼は汚れている。もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言する。男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、祭司はこれを調べる。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹である。彼はきよい。男の頭の毛が抜けても、それははげであって、彼はきよい。もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげであって、彼はきよい。もしその頭のはげか、額のはげに、赤みがかった白の患部があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに出て来たツァラアトである。祭司は彼を調べる。もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような赤みがかった白色であれば、彼はツァラアトの者であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。…』」
レビ記13章29-46節
なかなか理解しづらいレビ記を真面目に読もうと思ったきっかけは、実はこのハゲの箇所なんです。ある方が、レビ記にはハゲはきよい、ってあるんだよ、と教えてくれて。まあ、私自身頭も薄い方なので。どういうわけか、未信者の方でもハゲに対して意外に高名なイメージを持っている人がいるみたいで不思議です。それはそれとて神様にとってあなたは高価で尊い存在。だから、あなたが聖くあることを何より願っていることを忘れてはいけない。神様はあなたのことをご存知でなお、あなたを義の道に導かれる。この神様の備えられた命、喜びを持って歩もう。
さて、↑はツァラアトという皮膚病の話、その続きになります。今日の箇所では、隠れたところと隠れていないところにツァラアトが出ているケースについてです。隠れたところだったらヒゲや髪の毛によってですね。これは発見しづらい。逆に、隠れていない皮膚、また髪の少ない、またはハゲておられる方のケースになります。現代風に言うなら、疫病や黄癬白癬、脱毛症と言ったところでしょうか。私も頭の毛が薄いので何となく気になるケースではあるのですが。
ふと今日の隠れたところと隠れていない所の病気について神様がモーセを通してやはり詳細に語られているところを見ると、神様は私達の見えない部分、苦しんでいる部分をもご存知で、それを汚れている、と言いたいのではなく、むしろご存知の上で心配してくださっているということを診ますよね。頭が薄い、そのことについてだってそうです。それはただのハゲ、聖い、ということは、裏を返せば気にしなくて良い、という神様の思いなのではないでしょうか。わざわざそれを伝えるのは。まあ違いを明確にするため、とも言えますが。
神様には何でもお見通しだから、とかそういう意味ではなく、神様はあなの、他の人からは見えないところの苦しみや悲しみ、問題、また他の人からも明らかな苦しみや問題、何より罪を気にしておられるのです。汚れているだの、聖いだの、その宣言は、聖さへ、本来あるべき姿へ回復していくことを願ってのこと。一見ひどく聞こえますが、神様の癒やしを信じ待つ、神様の導き、解決を待つ、そんな事を思わされますね。
↑の「男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはかいせんで、頭またはひげのツァラアトである。祭司がかいせんの患部を調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患部を七日間隔離する。七日目に祭司は患部を調べる。もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、その人は毛をそり落とす。ただし、そのかいせんをそり落としてはならない。祭司はそのかいせんの患部をさらに七日間隔離する。七日目に祭司がそのかいせんを調べる。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。しかし、彼がきよいと宣言されて後に、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、祭司は彼を調べる。もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はない。彼は汚れている。もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言する」という部分だって、今までの隔離期間よりも2倍になっています。
今、感染についてシビアになった時代だから分かると思いますが、発見が難しいときもあるのです。だから余計に隔離した、守った、という面もあるかもしれませんね。見えていればどんな偏見を持たれるかわからない、だからこその隔離だったのかもしれません。もちろん衛生上の問題もあったかもしれませんが。神様の代理として「調べる」祭司、調べるという言葉が頻繁に使われていますが、神様は私たちのことを心配されている。なにか苦しい目にあっていないか、知らないなにかに蝕まれていないか。神様の恵みを失っていないか。そして「彼はきよい」と宣言するということは、まさに神様の御手の業を確信するときとなるのです。
次にハゲのこと、これは非常に興味深いところですが、人の形がどうであれ、神様は最高の形に造られた、この確信を私たちは持つべきではないでしょうか。聖く神様は私達を造られた、しかし、私たちがその形を何らかの理由で失ってしまうとき、また神様の恵みから離れ、夜の思い煩いに傷ついて苦しんでいる中にあって、神様はもう一度「汚れている、汚れている」と宣言し、感染が広がらないようにしなければいけない状態から、「きよめられた、きよめられた」と宣言、神様を褒め称えられる状況へと神様は導いてくださるのです。どんなときにあっても、目に見えては大丈夫そうに見えても、傷ついた心を、身体を、魂を癒やし、聖めてくださる。
それほどに神様はあなたを思ってくださっているということをどうか忘れないでください。神様はあなたのすべてを新しく回復させるためなら、天や地さえ隔離される、十字架による罪の身代わりの死、そして陰府にまで降られたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人におなじ復活の恵みに預からせてくださる。
神様は私たちに「きよめられた」と何度も宣言できるくらいの喜びに今日も導いておられる。私たちはせっかく頂いたこの大いなる愛を汚れている、という状態にせず、神様から離れず、神様の用意された聖い命の道を歩ませていた蛇行ではありませんか。
