ー不思議な事件1:本当に悲しむべきはー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。それで、モーセはアロンに言った。『主が仰せになったことは、こういうことだ。【わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。】』それゆえ、アロンは黙っていた。モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せ、彼らに言った。『進み出て、あなたがたの身内の者たちを聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。』彼らは進み出て、モーセが言ったように、彼らの長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した。次に、モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。『あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆に下らないためである。しかし、あなたがたの身内の者、すなわちイスラエルの全家族が、主によって焼かれたことを泣き悲しまなければならない。またあなたがたは会見の天幕の入口から外へ出てはならない。あなたがたが死なないためである。あなたがたの上には主のそそぎの油があるからだ。』それで、彼らはモーセのことばどおりにした。それから、主はアロンに告げて仰せられた。『会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。』」

レビ記10章1-11節

 

いいことはいい、悪いことは悪い、これは誰でも知っている。でもだめと言われるとついついしてしまうのが人間の性(さが)なのだろうか。最初の人アダムの妻、エヴァも、サタンの誘惑があったとはいえ、十分必要は与えられていたのにも関わらず、神様を疑い、夫アダムと共に食べてはならないと言われていた木から実を食べてしまった。神様はすべてを与えてくださる、ベストを尽くされる、それに私たちは信頼しているだろうか。私達は日々神様の恵みを覚え、感謝し、歩みたいものです。私達が思う以上に神様は愛してくださっているのだから。御子イエス様のいのちを与えるほどに。

 

さて、ずっと生贄の話が続いてきましたが、ここで大事件が勃発します。大祭司アロンの子ナダブとアビフが「自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死」ぬという大事件が起こりました。祭司の息子、任命されたばかりの。

 

いったい何が起こったんだろう?なぜこんな事が起こったのか?普通に考えたら非常に不思議で理解するのが難しい。神様は愛の神様なのにどうしてそんなことを?と思われるかもせいれない。そう、神様は愛の神様なのです。↑で「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す」と神様が語られているように、神様はご自身の愛を溢れ流れさせたいのです。それゆえに、これを阻害することはあってはならないことなのです。本来祭司はその祝福、聖、愛を溢れ流れさせる役割、神様と民を繋ぐ役割を持っているので、それを塞ぐということはありえない話なのです。

 

以前、私は死んだら菩薩になるの、と言っていた方がいましたが、その人を見ていると、別なスタッフが、この人が菩薩になれるくらいなら、信じている菩薩も大したことないな、と愚痴を漏らしていたのを覚えているのですが、私たちの歩みの中で、この人の信じている神様なんて信頼できない、という歩みではなく、話を聞いてみたい、と思えるような歩みをしたいものです。私も東京で仕事をしていたときに、私になら相談したい、と同僚に相談されたり、祈ってほしい、と頼まれたことがあります。私自身は小さな器ですが、神様に委ねる時、本当に正しい器となっていくのではないか、聖められるのではないか、とふとこの話を分かち合いながら思わされました。

 

話は戻して、なぜこんな事が起こったのか。まあそもそも神様の命じられた方法とは別な方法でした、ということは、神様を侮った、ということ、そしてもう一つは神様はもっとすごいことをしてくれるんじゃないか、と考えた、という事が見えてきます。序論でアダムとエヴァの罪の出来事を分かち合いましたが、彼らに神様は中途半端な愛ではなく、すべての必要を満たしてくれていた。しかし、サタンの誘惑があったとはいえども、彼らは神様を疑い、取って食べてはならない、死ぬといけないから、と言われた実を食べてしまった。

 

でも、私たちを養ってくださるのは神様なのです。神様の主権、神様がベストを備えてくださっているということを忘れてはいけない。どんなにうまく中々行かない時があっても、神様はいつでも最善を備えてくださっている。試練のときであっても神様はともにおられる。ルカのによる福音書の分かち合いの中で、イエス様がサタンの誘惑を受けていた時、御使いがイエス様を励ましていたように、神様はあなたを決して見捨てたりはしないのです。それを疑ったらある意味では本来あるべきいのちは失われる、神様が用意される最高のあなたの姿が失われるのは自明なことではないだろうか。ナダブとアビフが装束以外を焼き尽くされたように。

 

実はこれより少し先の章にこのときの原因を神様は言及されています。その時、神様は「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである」と仰っています。どうも、一昨日の分かち合いの最後の「すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した」という部分を考えると、本来、これまで見てきたように贖いの日にのみ、大祭司しか入ることのできない至聖所に入って行ったと考えられます。そして、この時主の前から火が出てきたことを見て、これはすばらしいと思い、自分たちにもそれをまねして、火を出してみせることができるのでは、と思ったのでしょう。神様ではなく自分に栄光が与えられる、大祭司ではない祭司、自分たちでもこのようにできるんだ、と示そうとした。でも火を出されたのは神様。私たちではないのです。

 

全ての良きものは神様が与えてくださります。確かに自由意志というものがありますから、するのは自由ですが、彼らが焼き尽くされたように、神様が本来与えたい聖、恵みを蔑ろにすることはあってはいけない。神様から火が出ているように、神様はその神様の霊を持って私たちを整えてくださるのです。良きものを備えてくださるのです。むしろ神様の恵みにあって私達は整えられ、その聖が私たちを聖め、なお周りに溢れ流れていくのです。

 

アロンも子も、悲しむことは赦されなかった。それは神様がなされたことを否定することになるから。ただ憎むべきは罪、悲しむべきはその恵みを失われてしまうこと。罪を神様に引き出していただき、私たちはこの神様の聖にあって洗い聖められ、神様の霊がとどまり、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、神様を知る知識と主を恐れる霊を求めようでは亜りませんか。

 

本来私たちが焼き尽くされるはずだった罪を、イエス様が身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれ、3日目によみがえられたことによって、私達の焼き尽くされるべき罪は墓の中に葬られ、新しい身体、装束が、同じ復活の恵みに神様は私達をイエス様と一緒に引き出してくださったのです。私たちはもう振り返らず、進行の創始者であり完成者、私達と世の終わりまでともにおられる、いつも養われ、整えてくださるイエス様に信頼し、歩もうではありませんか。