2つの「しかし」 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

私たちには様々な問題がある。

なんでこんなことばかり起こるんだ、と嘆きたくなるようなこともたくさんある。

 

このことについてちいろば牧師と呼ばれていた榎本保郎先生はこう語っていた。

現実と神のことばとの間にずれがある。だから私たちは、そのいずれを、けれどもとか、しかしという言葉で埋める。その『しかし』には二つある。一つは、神が私を愛すると言われる。しかし、こんな暗い現実の中にあって、どうしてそれが信じられようかという『しかし』である。もう一つの『しかし』は大いなる『しかし』と呼ばれるもので、自分の現実は暗く悲しい、しかし神のことばだから信じようという『しかし』である。言い換えれば、人間の側に立って神のことばを裁く『しかし』と、神の側に立って人間の現実をこえていく『しかし』である。そして、そのどちらの『しかし』に立つかが、私たちの信仰態度を決定するものであるが、聖書はいつも、いつもその大いなる『しかし』に立って語っている。

 

あなたのために命を惜しまない神様が、

神様から離れたあなたを、しかし愛され、十字架に御子イエス様をかけ、死なせてまであなたを取り戻そうとされた。この愛の前にあなたは何を思うだろうか。