「彼はまた、庭を造った。南側では、庭の掛け幕は百キュビトの撚り糸で織った亜麻布でできていた。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀であった。北側も百キュビトで、柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀であった。西側には、五十キュビトの掛け幕があり、柱は十本、その台座は十個。柱の鉤と帯輪は銀であった。前面の東側も、五十キュビト。その片側には十五キュビトの掛け幕があり、柱は三本、その台座は三個であった。庭の門の両側をなすもう一方の片側にも十五キュビトの掛け幕があり、柱は三本、台座は三個であった。庭の周囲の掛け幕はみな、撚り糸で織った亜麻布であった。柱のための台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀、その柱の頭のかぶせ物も銀であった。それで、庭の柱はみな銀の帯輪が巻きつけられていた。庭の門の幕は、刺繍されたもので、青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布とでできていた。長さは二十キュビト。高さ、あるいは幅は五キュビトで、庭の掛け幕に準じていた。その柱は四本。その台座は四個で青銅であった。その鉤は銀であり、柱の頭のかぶせ物と帯輪とは銀であった。ただし、幕屋と、その回りの庭の釘は、みな青銅であった。」
出エジプト記38章9-20節
庭、わたしの実家の千葉の家では、庭があり、飼い犬が私が一人暮らしの家から帰ると、遠く離れたところから反応してわたしを迎え入れてくれたのをよく覚えています。また、もう召されていますが父も母も喜んで迎えてくれたこと、今でも忘れない。私たちには帰る場所がある。神様が用意してくださっている。特別な人だけではない、私たちはイエス様の門を通り、王の庭に招かれている、そこに安らぎがある、何という恵みでしょう。私たちはこの神様の呼びかけに応え、この恵みの中行きたいものです。
さて、今日の箇所では庭。これまで見てきた天幕(至聖所と聖所、そこにある物)、そして生贄を捧げる祭壇、水によって手足を洗い命を得るという洗盤、これらを囲うように↑で書いてありますが、かけ幕で覆われる形となり、その内側が庭となります。そしてこの掛け幕の周りにはイスラエル12部族のテントが囲まれている形になっています。
民は外側、祭司や大祭司は至聖所・聖所で仕える。一部の人しか入れないように囲われたのか、と言うとそういうわけではありません。完全に封鎖する形ではなく、門が、架け幕が用意されていたわけです。ちなみに、南北共にその長さは約45m、東西共に22.5mになっています、が、東側には約6.8mのかけ幕があり、これが設けられていた。さらに庭の高さは高さは4.5mだそうです。そう考えますと、巨大な城壁のように侵入不可能な場所、というわけではなく、むしろこのかけ幕を考えますと神様のご臨在が封鎖されていたわけではないのです。だって、亜麻布ですから。
考えて見えれば、アダムとエヴァが罪を犯し、エデンの園を追放された時、そのエデンの園は炎の剣(おそらく御霊様か天使ガブリエル?)によって封鎖されてしまっていた。しかしそれでも神様は彼らが祈ることを赦され、彼らを見捨てていなかったように、神様は私たちに立ち帰る道を用意してくださっているのです。
いつぞやかの某総理大臣が辞任する際に、わたしとあなたとは違うんです、と言っていましたが、神様とあなた方は違うんだから、この庭に入ってくるな、神様の恵みのうちにはいってくるな、と拒絶するわけではなかったのです。確かにこの天幕、内側にある庭は各部族の中心に位置するところにあります。だからただひれ伏せ、とかそういうわけではないのです。
聖書の中にある詩篇の中にこのような詩があります。「新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭に入れ。聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。国々の中で言え。『主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。』天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる」と。
私がこの箇所を分かち合うために詠んでいた時にまっさきに頭に浮かんできたのがこの詩篇でした。王の庭に入る、招かれているということ。閉ざされているのではなく、開かれているということを。あんな金の子牛事件があったのだから、この門は閉ざす、と神様に言われてもおかしくなかった、しかし、神様はかけ幕を、以前シナイ山で語られたときのように、作ることを赦された。王の庭に入るためのかけ幕を。
それは神様の王座、天の御国と私たちの生きている世界では別格の違いがあるかもしれません。しかし、イエス様は主の祈りの中で、「御心が天で行われる通り、地でも行われますように」と祈ることを教えています。神様は、私たちを先程の詩篇のように新しい歌を歌わせてくださるように変えて下さる。良い知らせ、救いを私たちは見るのです。奇いわざを。賛美したくなるほどに大いなる事を為さり、すべての作り物の神々さえ、悪霊でさえこの主の前にひれ伏すのです。
神様は天の光景を表すかけ幕という入り口、これを用意された。私たちが生贄を携え、いや悔い改めの心を持ってこの門の前に進みゆくとき、私達はこの庭に立ち入らせて下さる。ただ立ち入らせてくださるだけではない、世界を硬く建てられ、揺らぐことなく構成を持って統治されている神様が、あなたの内に働かれるのです。豊かな恵みを、御力を、御心を現されるのです。しかもこれがしっかりととめられ、決して揺らぐことはない。
青銅、これは裁きを意味している、と以前分かち合いましたが、それでは自分たちはがんじがらめに縛られているのか?いえ、私達はイエス様にあって自由とされるのです。罪の奴隷から解放され、神様の子として招き入れられるのです、王の家、王の庭、神様の家族に。何という幸いでしょう。
じゃあ何がしっかりととめられるのか。それはイエス様の十字架にあります。イエス様は私たちの主にも何もかも一切を背負われ十字架にかかられ、死なれました。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架と復活の贖いの前に悔い改め立ち帰るすべての人をあのたれ幕から招き入れて下さるのです。十字架でイエス様が死なれたとき、天からこの幕屋の至聖所と聖所を分ける幕が避けた、神様がその塞がれているところを開いてくださったように、まさにこの垂れ幕を持って、私達は招かれる。そうしてイエス様のいのちに預かり、養われ、また遣わされるところに置いて私たちはもはや揺らぐことはないのです。
「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる」と先程の詩篇の最後で締められていますが、まさにこの裁きの青銅、十字架によって私たちは硬く立たせていただき、また使わされていくところどこに老いても喜び歌わせて下さる。神様がすべ治めてくださるから。この復活のイエス様があなたと共に歩まれ世の終わりまで導かれるから、私達は揺らぐことがない。私たちはイエス様を中心に、イエス様に導かれ、いつも養われるためこの王の庭に入り、また生かされ、また新しくされ、強められ、歩もうではありませんか。