ー必要な言葉はいつでも語られ示されるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、『この人は、ヨセフの子ではないか』と彼らは言った。」

ルカによる福音書4章14-22節

 

人は聞くことよりも、物申したいことのほうが多い。まあ、ひとによりけりでしょうが。特に今の時代、そんな風潮が目立ちますね。それを言うと言論弾圧だ、とかまた出てくる事も多いのですが、でももし相手の語ることがあなたにとって大事な時、それでかちんと来て封じようとしたら何の意味もない。逆に実はそれで言論弾圧、黙らせ、自分の意見に屈服させる形になる。人間同士ならまあ、弱いから仕方ないにしても、神様は私たちにいつでも、どこでも、あなたに必要なことを語られる。

 

さて、サタンの誘惑を退け、御霊の力を帯びたイエス様はガリラヤ地方に帰られるのでした。ガリラヤと言うと、異邦人、というか異国人の人達の出入りも多いため、ガリラヤから何の良いものが出ようか、と言われるような地域、そんな見捨てられるような地域にもイエス様は向かわれます。

 

イエス様は人となって生まれてから、十字架にかかり死なれ、陰府にまで降られ、天に昇られるまで、ありとあらゆるところを行かれます。時には通る必要がないところも、イエス様はイエス様を必要としている人のところに足を運ばれる。イエス様は、いつでも私たちの傍におられ、遠く離れていない。私たちが、神様はなぜ答えてくれないのだろう?と疑問に思うときでも、イエス様は旅にでているのではなく、あなたが求めれば必ず語られ、必要なことを導かれる。なされる。

 

今日の箇所では、故郷のナザレと、いま出てきたガリラヤとでは大きな反応の違いがでてきますね。でもイエス様は「いつものように」語られている。相手に合わせて適当に内容を変えるのではない、真実、救いを語られるのです。もちろんいろんな内容の言葉を語られますが、それはその人に必要なこと、そして彼らが命を得るため、私たちが幸せになるため、平安を得るため、なのです。

 

イエス様は父なる神様に示されるまま語られます。ガリラヤ地方では、イエス様の評判を聞いて集まってきた。でも、そこでどうだったか?「イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた」というのです。神殿に来る人達は真面目です。基本集まってくる人たちは神様を、救い主を、メシヤを、この暗闇の圧政、時代から解放する救い主を待ち望んで礼拝しに集まっていたのです。

 

そんな中であがめられた、ということは語られた言葉は確かに真実であり、御霊に満たされ語られたことがよくわかります。人は奇跡とか何か凄い事を見ると、崇める、そんな傾向がありますが、イエス様はここでは語られているだけです。しかしその中でイエス様を崇める、それほどにイエス様の語られる言葉は真実であり、力があった。嘘なら真面目に会堂に通っている人達は見抜いて崇めなどしないでしょう。彼らは奇跡云々ではなく、まさに神様が自分たちを憐れみ、イエス様をお遣わしになり、語られた、その愛に喜んだのです。こんな自分たちなど誰が振り向こうか、と思う中に神様は見ていてくださっていた。その喜びにあふれたのでしょう。

 

ところが、今度はイエス様の育たれたナザレに帰り、同じように安息日に会堂に入られた。だまって他の人が朗読することもできるところ、イエス様は立ち上がり、語られた。神様、というと日本にいると黙っている、私たちが何かをして差し上げる、とかそういうイメージが強いですが、神様は語られる神様なのです。そして今、必要なことを語られるのです。

 

イエス様はイザヤ書という預言書を手渡されます。その中で、イエス様は今彼らに必要な箇所を開かれたのです。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」という箇所を。そしてこれが今日実現した、と。まさにそのメシヤが、救い主が、罪から釈放し、塞がれた目を開き、虐げられている人々を自由にして下さる、神様の恵みが溢れるその時が来た、と。

 

これこそ、まさにイエス様が十字架をもってなそうとしていること。この先公生涯の中で多くの盲人の目を開かれますし、罪ある人が石打になろうとしているところから解放し、お金にとらわれていた取税人たちをイエス様の恵み農地にこそ命があることに気づかせたり、彼らを支配しているローマ兵を、実は自分たちこそ罪にとらわれていることを知らせ、解放したり…驚くべきことがこの先の公生涯の中で数々起こっていきます。

 

ある人達はイエス様の口から出てくる恵みの言葉に驚いた、という。しかし、ある人達はこれは学もない、貧しい大工の息子イエスじゃないか、と反論します。ただ、少なからずともイエス様に立ち返り、イエス様も彼らの中で奇跡を少ししか行われなかった、という記述が他の福音書にもあるので何人かはこのイエス様の言葉を受け入れたのでしょう。しかし大半は受け入れることなくイエス様を追い出そうとしたのです。

 

反論していた人達は、ある意味で家柄に注目していた。しかしイエス様の家柄は、本来神の御子という素晴らしい立場であられるのにその有り様を捨てられないとは考えずに人となって生まれてきてくださった。それを別にかさにして自慢をするわけでもなかった。あくまで父なる神様に民が立ち返ることを、神様の恵みを語られたのです。

 

私たちは何に注目するでしょうか?奇跡?語られている内容の、自分に都合のいい部分だけ?それともイエス様ご自身?イエス様はあなたを命の内に、救いに招かれるために来られた。いのちをかけてまで。あなたがこのイエス様のうちに立ち返るとき、先程の預言はたしかにあなたのうちに成就される。イエス様の命があなたを新しくして下さる。十字架によって投げ出され復活された、その命にあって。今日、私達はこのイエス様の十字架の愛に注目し、これに生かされ歩もうではありませんか。イエス様はただ来られたのではない、あなたを罪から開放し、新しいあなたへと解き放つ、本来のあなたへ回復させるため来られた。今こそ私達は神様に立ち返ろうではありませんか。