「…ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のすべての仕事をすることのできる知恵と英知を主に与えられた、心に知恵のある者はみな、主が命じられたすべてのことを成し遂げなければならない。モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。『民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。』それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。『男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。』こうして、民は持って来ることをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。」
出エジプト記36章1-7節
匠、という名称をつけられる職人さんがいますが、その人たちに共通するのはある程度頭の中に図面が出来上がっているんだろうな、と思う。その上で何が必要か、何をどれ位用意したら良いのか、どんな言葉掛けをしたらクライアントは安心、喜ぶか、この辺を熟知しているのかもしれません。ただ、神様はこの天地万物を作られたあるい味で最高の匠。この巧みなる神様が与えて下さるのはあって余りある程の恵み、喜び、感動、そうしたものと共に私たちを励まして下さり、導いて下さる。全ての必要を神様は用意して下さっている。私たち全ての全て、匠なる神様に私たちは信頼し、歩もう。神様の御心を待ち望み。
さて、金の子牛事件から、神様の憐れみにより赦され、神様は幕屋を造る事を赦されました。赦さなければ、確かにハリボテはできても、神様は住まわれない、ただ単なる重荷にしかならないものになってしまう。しかし、神様はそれでも彼らの、私たちの人生をその霊で、いのちで満たしたい、と彼らの悔い改めを見て、赦され、神様が住まうよ、と言っていた幕屋の作成に入っていくわけです。
それにしても、↑を読んでいると、これ以上持ってこなくていいと言うくらい、有り余るくらいの人達が神様のこの憐れみ、愛に感動した、いや、神様がともに住まわれる事を喜んだ、これは本当にすごいことですね。強制搾取されるわけでもなく、自分の自由意志になりますが、必要なもの、自分たちがそもそも神様から与えられたものを神様に委ねる、その時、神様が本当に豊かな何かを、私たちの内に建て上げられていくのではないでしょうか。どこかのカルト集団みたいな、ただ搾取して、自分だけが満足する、一部の人達だけが潤うことしか考えない連中とはわけが違う。
よく、捧げると自分は何かを失う、と思う。カルト集団の場合はそもそも人間だし、自己満足を求めるからどうにもこうにも、ですが、真の神様の場合は話が違います。神様は与える神様なのです。神様は喜んで捧げる人、喜んで神様ご自身を求める人のうちに↑でいうなら知恵、英知、以前の章では霊を注がれる。あなたの歩み、あなたの働き、そのうちに神様は驚くべき霊を注がれ、私たちは感動・喜びに満たされる何かを見させていただけることを↑から見ることができますね。
以前神様が霊を注ぐ、と約束されたオホリアブやベツァルエルだけではない、神様を求める人のうちに何にも代えがたい神様、究極の匠、幕屋の設計図だけではない、この天地万物、人間のこの人体さえ素晴らしい形をもって正確に造られる神様があなたのうちに注がれる。
それは家を建てるのにはお金はかかりますよ?お金の話をなぜここで出したかは最後に見ますが、ただ神様は人の心を求めていることを昨日の箇所で見ましたが、あなたのもっていく心、そのものを喜ばれ、そのうちに神様の素晴らしい物が与えられる。神様が住まわれ働かれ、建てあげられる、何と幸いなのでしょう。まあ、もしかしたら全員ではなかったのかもしれませんが。喜んで捧げる人、というくらいですから。ただ、神様は招かれる、それに応じるかどうかは私たちの応答によるのではないでしょうか。
そもそも以前も分かち合った気がしますが、彼らが持ち寄ったものはどこから得たものですか?自分たちの財産ですか?いえ、彼らは奴隷としてずっと過ごしていた、モーセの兄のアロンや姉のミリヤムは少なくとも80はもうとっくに過ぎていて、生まれた時からもう奴隷として囚われていた。ということはそれよりも若い人たちは言うまでもなく奴隷としてずっと生きてきていた。そんな装飾品や宝石などどこから手に入れますか?彼らが出エジプトした際に神様が、彼らのしてきた労働の賃金としてエジプトから与えたものではありませんか。神様はほら、救ってやったんだから私が独占する、捧げなさい、と言ったわけではなく、彼らを我が民、我が子として受け入れ、救いの衣のように着飾らせてくださっていた。それを彼らは今度はみなで共有、神様とともに生き、進もう、と捧げたのです。
その喜びから「彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た」というのです。神様が、彼らに働きなさい、そしてどこかからかってきなさい、と言ったわけでもなく、神様は彼らに必要十分なほどに与えてくださっていた。そしてその神様が彼らのうちに働く喜びが止まらず、有り余るほどに彼らは持っていったのです。でも、必要以上に神様は受け取らなかった。この辺はまたネタが戻りますが某カルト集団との違いですね。
神様はしようと思えば自分で作り出すこともできるからある意味で集める必要はない、それくらい神様はすべてを持っておられる。私たちに必要なすべてを。私たちが足りないと思うだけで神様は、あなたに十分なものを与えてくださっているのです。もちろんもっともっと、と神様ご自身を求めることは間違っていませんよ?喜んで神様のもとに「自分の心を持っていく、捧げ、神様とともに生きたいという思い」は間違ってはいません。ただ、私たちは神様があって余りあるほど十分な恵みを注いでくださっている、そこに過不足はない、ということを忘れてはいけないのです。
私たちの歩みの中には困難はそれはありますよ。イスラエルの民もこの先も荒野を進みますし、巨人族との戦いや問題も様々出てきます。しかし神様はそれを打ち倒せないほどの方?違う。神様はあなたが遣わされている場所、仕事、家庭、人間関係、その他諸々、全てのうちに神様は過不足なく霊を注ぎ、知恵、英知を与え、必要なすべてを与えてくださってる。神様はただ幕屋を造らせて終わり、ではなくあなたとともに住まい、進まれる、養われ、導かれるのです。あなたの労苦はその日その日で十分なのです。神様をまず求めるところに、神様はあなたが求めるものに加え大いなる恵みを注がれる、喜び、感動させていただけるその御心、栄光を見る。神様が働かれ、建てあげられる素晴らしい何かを見させていただけるのではないでしょうか。
神様はこの世の思い煩いや、苦しみ、悩み、何より罪によって傷だらけになってしまったあなたの命をもう一度建て直そうと、御子イエス様の命という代価を持ってあなたをそれらから赦し、開放し、新し生まれ変わらせてくださる。新しい命のうち、神様の霊が注がれた、神様があって有り余るほどの恵みをもってあなたを建てあげてくださる。神様の子として迎え入れてくださり、復活のイエス様があなたのうちに住まわれる。
表現はあれですが、この匠なる神様があなたのうちに注がれ、建て上げられていく宮、幕屋、いのち、私たちは大いに期待しようではありませんか。これ以上あなたが付け加える必要のないくらいの最高の恵みであなたを満たし、養い、導かれるから。