ー結局誰についていくの?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行った悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

ルカによる福音書3章19-22節

 

八方美人、いい人がいればそっちに乗り換え、そっちが堕ちると別な人に乗り換え。その人の芯はどこにあるのだろう、と思う。でも本当にじゃあこれ、というものを見つけるのも大変…ではないのです。神様があなたを愛し、あなたを招かれる。それを受け取るかどうかだけの話なのです。言ってみなきゃわからない、じゃなく、神様から降りてこられ、御子イエス様を十字架にかけ死なせることによって、まず愛を示された。この愛を知ったとき、あなたはどうしますか。

 

さて、新約聖書の分かち合いでは、いま神の御子イエス様の生涯を見ていますが、イエス様が30歳くらいになられた頃の話。バプテスマのヨハネ、イエス様の肉の親戚にあたるわけですが、彼は悔い改めのバプテスマを解き、洗礼に多くの人を導いた。でも、ただ洗礼を授けて終わりではない、ということを前回見ましたが、バプテスマのヨハネは悔い改めの実を結ぶように、と、神様に悔い改め立ち返り悔い改めの実を結ばせていただくよう話していた。

 

具体的には、群衆たちに「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい」と訴えたことであったり、多く袖の下に税金を取る取税人には「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません」と言ったり、兵士さえ恐れずに「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」と等語っていた。でも、自分はメシアではなく、その方の靴の紐を解く値打ちもない、と謙遜だった。

 

だからといって彼は甘言ばかり語るわけではない。国主ヘロデが彼のもとに来た時、権力を得るために彼に都合のいいことを語るわけでもなく、むしろヘロデは彼に興味は持っていましたが、自分の兄弟ピリポの奥さんヘロデヤが乗り換えた、それを指摘されたヘロデは彼を牢に捕え、後に奪い取ったヘロデヤの策略により、首をはねられるというとんでもない事件が起こるのですが、確かに権力は保たれても、それが何になりましょう。

 

彼は悔い改める機会はあった、牢に捕えていても彼に関心を持ち、ヘロデヤの策略に耳を貸さず、神様に立ち返っていれば、悔い改めていれば全く違う者となっていたでしょう。権力によらず、能力によらず、神様の霊によって私たちは生きる、たとえ巨大悩み、山、権力、問題であろうと、神様の前には平らにされ、神様の恵みが豊かに溢れる、まさに絶好の機会だった。しかし、彼は罪を重ねてしまった。

 

一方で、これと大局的に登場したイエス様。まあヨハネが捕まる前ですが。イエス様についてバプテスマのヨハネはイエス様の靴の紐を解く値打ちもない存在であると自分を評していましたが、イエス様は彼のことを「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と言うほどでした。

 

しかし神の御子イエス様は、何の罪を犯すわけでもないのに彼のもとにバプテスマを受けに来た。信じられない出来事が起きたのです。他の箇所では、今はそうさせてほしい、とありますが、イエス様自身がいつも神様を求める、その姿を私達に示された。他の権力者や、なにか問題に振り回され、それに目を留めるのではなく、神様に目を留めよ、と。その者は神様に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と宣言される。もちろん第一義的にはこれはイエス様を指しますが、私たちがこのイエス様のもとに今度立ち返るとき、私たちは神様の愛する子とされる、神様に喜ばれるものとなる。

 

そのため、バプテスマどころか、死のバプテスマ、十字架の盃までイエス様は受けられ、あなたの痛みも悲しみも、何より罪も何もかも飲み干され、十字架上で死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人は、この復活の恵みにあず借り、神様の喜びが溢れる。

 

バプテスマのヨハネについての先程のイエス様の評価には続きがあります。「しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と。このイエス様の十字架によって開かれた道は、確かに迫害もある、しかし同時にその中にあって、私たちは神様に直結している店の御国への道を進む、サタンの支配から奪い取り、御国が、神様の喜びが、御旨があふれるところへと変えられていく。ヘロデのようにそれを失うものではなく、私たちは神様の喜びに溢れる事を願い、天の窓が開かれることを願い、聖霊様の力が溢れることを願い、日々神様の御前に自身の心を開いていこうではありませんか。