ーそれでも忖度せず。誰に従うのかー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入口に立って『だれでも、主につく者は、私のところに』と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。『イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。』レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。『あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。』翌日になって、モーセは民に言った。『あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。』そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。『ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら─。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。』すると主はモーセに仰せられた。『わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。』こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。」

出エジプト記32章25-35節

 

自分の命をとしてまで、隣人を愛する、これほど大変なことはない。でも、これを実行された方がいる。イエス様。イエス様は誰に忖度するのでもなく、どんなに罵られても裏切られても愛を実行された。私たちを救うために。イエス様はいつでもご自身の恵みにあなたを招かれている。私達はこの招きにどう応答するだろうか。

 

さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登ったその間山の麓で待っていた民が、神様が養ってくださっているのにも関わらず、「モーセ」がいない、下山に戸惑っていると不安になり、アロンに新しい神を造らせ、淫行を伴うとんでもない祭りが行われていた、それを神様は見ていた。彼らが神様はもしかしたらいない?と疑問に思う中で神様は養って、その心を留められていた、にも関わらず彼らはとんでもない事を行ってしまった。そこで神様はモーセに事を告げ、モーセも彼らのためにとりなしの祈りを祈り、下山し、神様が仰られていた通りの状況に悲しみとともに神様の作られた十戒の板を叩き割った。その後の箇所になります。

 

ここで更なる凄惨な出来事が起こる。何も某A元総理の死去された日にこの箇所を続ける?と言う人もいますが、しかし神様の御言葉は時が良くとも悪くとも語り続けなければいけないし、それによって内容が変わるわけでもない、聖書に書かれていることは1つも無駄にならない大切な事なので。

 

話を戻して、モーセは、民が乱れており、アロンが彼らを放っておいたので、敵の物笑いとなっているのを見たモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言います。そうするとモーセの出身部族のレビ族がみな、彼のところに集まってきて、モーセは彼らに「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」と言い放つのでした。そしてレビ族は、モーセのことばどおりに行ったのでした。

 

これを見ていると、神様は容赦ないのか、愛がないのか?モーセのシナイ山上で神様にとりなしていたあの祈りはどこにいったんだ?と思いたくなるところですが、これはモーセの「だれでも、主につく者は、私のところに」ということばに尽きると思います。ある意味で最後の悔い改めのチャンスだったのかもしれない。ここで罪を犯した人達、彼らが悔い改め、神様の前に立ち返っていたなら、また結果は違っていたのかもしれない。神様につく、ということは神様の味方をするしないではなく、神様の御前に悔い改め立ち返る人の事ではないか。まあそれでも神様の御前に立ち返らなかった人達が多かったのは残念ですが。

 

どちらの味方をするではなく、モーセは神様の御心を求めた。結果この先神様は彼らをまた導いていく事になるのですが。私達は神様、なぜ?と思いたくなるような場面に遭遇する。でもその時こそ、神様の御心を示してください、私はあなたにつく、あなたに従います、と祈りたいものです。そして示されたことに対して応答したいものです。神様はここで彼らを滅ぼす滅ぼさないの前に、シナイ山でモーセがとりなすと、「すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された」とあるように、神様は私たちを命の道に導きたい、だから私たちはこの問題に限らず、いつも神様の御心を求めたい。そしてモーセが神様のもとに戻り執り成し祈りに行くように、私たちはそれでも神様の憐れみを祈り求めるものでありたいものです。

 

神様からしたって本当はやってられないはずです、人間的視点で見れば。せっかくエジプトから彼らを救い出し、養い続け、守り続けてきたのに、この裏切りはなんだ、と。しかし、その場で彼らを見捨て、32章前半で見たとおり、新しくモーセからもっと強い一族を起こすことができるにも関わらず、神様は↑の最後で「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく」と仰られたのです。

 

「裁きの日」、つまりまだ時がある。まあ、この先大きな事件をまた彼らはお越し、結局イスラエルの民で約束の地に入れるのは、ヨシュア、カレブ、そしてこの時20歳以下の人達だけなのですが。神様はまだ引き伸ばしてくださっている。だからこそ、忖度や、しょうがないよね、ではなく執り成しの祈り、こんな人は別に、ではなく、こんな場所、と思わず、神様の御心をせつに祈り求めたいものです。私たちが従うのは自分のお心ではなく、神様の御心です。

 

先に神様の結論を見ましたが、モーセは神様にこのようにとりなし祈りました。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら─。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」と。神様から自分は捨てられても良い、でもどうか彼らに悔い改めの機会を、憐れみを、いのちを、と願ったのです。なぜ自分が犠牲になってでも?自分が彼らと同じ罪を犯したわけではないのに。しかし、最後決めるのは神様ですが、それでも憐れみ深い神様に憐れみを願ったのです。

 

実はこの出来事は人ごとではないのです。私たちは神様につかず、離れ、神様を神様とせず好きなように生きてきた。私たちの気づかないうちに罪を犯していたかもしれない。しかし、そんな誰かを見捨てて良いのか?いえ、神様はそうではなかった。私たちの命の身代わりに、私達の罪を赦してくださるなら、と「父よ、彼らをお許しください、彼らは自分たちで何をしているのかわからないのです」と十字架上で自らの命を差し出し許しを懇願された、私たちの救いの道を開かれたのです。十字架による死と復活によって。

 

私たちはこのイエス様にあって、神様にお歩得られ、その神様の家族の中に招き入れられている。この愛を受けた今、私たちは何をするだろうか。イエス様は私達が守られるよう祈ってくださった。私達は今こそイエス様に従おう。救われたからもう良い、で終わるのでもなく、どんなときでも神様に従い、とりなし祈るものでありたい。神様の御心がなるように、この十字架による救い、リバイバルが起こるように。