「主はモーセに告げて仰せられた。『見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の【贖いのふた】、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。』」
出エジプト記31章1-11節
私も北海道に移住してから様々なしたことのないことに挑戦しました。車の免許、ものづくり、介護、東京にいたときにはありえないほど大変なものばかり。しかし、神様は確かに助けてくださった。神様は、ご自身の御力を私達に注がれるとき、その業は豊かなものとなっていく。私たちは神様にこの全てを委ねたいものです。
さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉、今回の箇所では、神様はこの仕事を成す人を任命します。フルの子であるウリの子ベツァルエルと、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを任命します。これまで幕屋について細かく見てきましたし、数字にはそんなには触れてきませんでしたが相当細かいです。何より、見たこともないものを作るということは容易な作業ではありません。道具が揃っていても、簡単ではない。
それだけではなく、祭司の衣装にしても何にしても、すべて神様の栄光を現し、またそれによって後の世代もまた神様のすばらしさを知っていく事となっていくわけですから、適当でいい、だいたいでいいでしょう、というわけには行かないのです。聴いただけで、これを実現させる、など相当な困難があります。
話がそれますが、私が神学校で学んでいた時に、ある先生より、仕事において何かで一番でありなさい、3ヶ月は黙っていうことを聴き、周りの人たちがこの人の話なら聴いてもいいかな、と思わせるくらいまで腕を磨くことを教わりました。まあようするに、態度振る舞い、言葉においても何にしても、信用できなければ話は聞いてくれないですよね。私たちは完璧ではない、だからこそ私たちは神様にすべ委ねる、祈る必要がある、自分がではなく神様の栄光が現されることを。
パウロは若い牧師テモテにこのように手紙で書き送っています。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい」と。テモテよりも長く生きていた人は彼の教会にもいたでしょう。彼より知識だけ習った人がいるかも知れません。しかし、だからこそ、かえって、神様により頼む、神様によって整えられるよう勧めるわけです。仕事というのは「召し」という意味を持っています。幕屋づくりであっても、私たちのどんな仕事、役割であっても同じ。私達は神様にいつもより頼み、整えられていきたいものです。
話は戻し、神様は2人の人を任命したわけですが、役割はそれぞれ別です。ベツァルエルには、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、その霊を満たし、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をできるようにされました。オホリアブには「会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香」の作成者として任命します。
それぞれ役割は別々です。でも何故神様は2人の人に絞って任命、ないし1人に絞らなかったのでしょう。当時のイスラエルの民はだいたい横浜市の人口と同じくらいの人数がいた、と言われています、それぞれで分担してやればいいのに、どうして絞られたのか。もしくは神様だったら1人で完成できるように、知恵と英知と知識、その霊を1人に注いで完成させるように導くことだってできたはずなのに。
しかし神様は2人を任命した。それぞれにそれぞれの役割を。そう、↑をよく見てみるとわかるかと思いますが、神様が「召し」出されたのです。先程召し、について紹介しましたが、これには仕事、という意味を持っています。仕事は神様からの召しなのです。そもそも幕屋は神様に仕え、姉妹兄弟が仕え、世のために取り成す場でもありますから、この幕屋における仕事を召し出したのには大いなる関係があるのです。
とはいえ、仕事と言ったって、会社勤めだけが仕事ではありません。専業主婦の方もそうですし、家事を手伝う人もそうですし、親の介護をする人もそうですし、もっと言うなら、友達や地域との付き合いもそうです。その人と神様が出会わせてくださった、その人のために神様が遣わしてくださった、ということにおいては召し出す、仕事であることと同じです。また、父、母、祖父、祖母であることもそうです。
みんなそう、仕事という名前ではないだけで、みんな神様からの召し、神様が目的をもって、ベツァルエルとオホリアブにそれぞれの幕屋、神様に、隣人に仕える中の一部を任されたように、私たち一人ひとりにも、目的をもってそれぞれの場所に召し出されるわけです。
しかし、私たちはそれが神様からの召しだとわかると大いなる励ましを受けます。この2人に、神様の霊を、神様の知恵で満たしたように、その場所が神様が遣わした場所だと知る時、私たちは神様のご臨在と知恵を求めるようになります。これは私の仕事だから私一人で頑張る、では私の知恵の範囲、能力の範囲でしかなくなり限界がある。もしくはお友達と一緒にするなら、私とお友達の能力では限界があります。
しかし、そこが神様から遣わされた場所だと知るとき、「では神様、ここがあなたが私を遣わした場所でしたら、神様あなたは私のために何をしてくれますか?」と求めるようになり、そのミッションに必要なすべてを与えてくださる。その人に必要な知恵、英知、知識を与えて下さるのです。神様があなたに必要な、仕事において必要なすべてをできるように助けて下さる。いや、私達自身でする以上の、神様の栄光が現されるのです。
たとえ難しくとも、またオホリアブをベツァルエルのもとに任命したように、祈り求めていく中で、必要な助け手、パートナーが与えられるでしょう。今この召しは私には難しいです、誰か助け手を与えてください、祈り手を与えて下さい、と祈ることができます。
ただ、必ずしも仕事が祝福されるわけではないですよね。なぜ?↑で「神の霊を満たした」とありますが、満たすというのは、成し遂げる、任命される、という意味があります。つまり神様が命じられたように、神様の御心を求めていく中において祝福されていくのです。
今日私たちが覚えていたいのは、私たちのこの命はイエス様の十字架による救いによって召し出された、新しいものとされたのです。私たちの仕事、ゆくみち、人付き合い、様々な問題が建てあげていく中であるでしょう。しかし、それを成し遂げてくださるのは、あなたを御子イエス様の命をもってまで死から、墓から引き上げてくださった神様が成し遂げて下さる。神様があなたを導いて下さる。人生仕事、とは言いませんが、それでも「召し」出されたあなたの新しい命、あなたはどう生きるだろう、どう捧げるだろうか。
