ー本当の水と油ー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「主はまたモーセに告げて仰せられた。『洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕に入るときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。』ついで主はモーセに告げて仰せられた。『あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分─二百五十シェケル─、におい菖蒲二百五十シェケル、桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン。あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。これはあなたがたの代々にわたって、わたしのための聖なるそそぎの油となる。これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。』主はモーセに仰せられた。『あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。』」

出エジプト記30章17-38節

 

水と油、私もある教会で、私とあなたは水と油ですね、などと言われショックを受けたことがありますが、そもそも汚れたままでは良い油は作り出すことはできない。かつてソロモン王は「死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い」と書き残しています。まさにその通り。私たちはまず神様に罪洗い聖められ、歩み出したいものです。この世にあっては多くの戦いがある。裸で行くのではなく、御霊の武具を身に着けて、しかし戦う相手はサタン、隣人を愛し歩みたいものです。

 

さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉、今回の箇所では神様は手を洗う洗盤と、まだ油を調合しするように命じます。正しく調合するように、と。本当は洗盤については本当は一昨日の箇所で見たかったですが、両方関わるので、こちらで触れさせていただきます。

 

一昨日の分かち合いの最後で、贖い金=神殿税や困っている人を助けるため=約100円、によって、隣人を助け支え合う、という話を分かち合いましたが、それは親しい人までならできるでしょう。しかし、苦手な人などというなら話は別。苦労も多いし、水と油ではありませんが、価値観が違えば大変です。場合によっては迫害があるかもしれません。

 

だからこそ、隣人に仕える前に水の洗を、生贄を捧げる祭壇と、会見の天幕(幕屋)の間のところにある洗盤で手を洗い聖められるように、と神様は命じます。いつもこの洗盤で洗い聖められるように。私たちは裸(鎧とか)で出ていっても何もできません。しかし、私たちが神様との関係が回復・洗い聖められるなかでイエス様が私たちの内に住まわれる、イエス様の十字架の血潮を受けるなら、私たちはあたらしくされる。復活のイエス様が私たちのうちに住まわれ、共に世に出ていく事ができるのです。その愛を、贖い金・銀半シェケル=約100円、愛をもって仕える事ができるのです。

 

ヨハネによる福音書15章3節で、イエス様が十字架にかかられる前、こう仰りました。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と。裸で世に出ていくわけではない、と言いましたが、何のために出ていきますか?戦うためですか?いえ、愛をもって仕えるためです。私たちはただ救われたからもうなんでもOKな状態になるのではなく、ただ留まっているわけではなく、むしろいつもこの御言葉によって洗われ、養われ、これを持って、出ていく、そこから多くの実を結んでいくのです。私たちだけではなく、あなたの周りにいる人達、希望を知らない人たちに、苦しんでいる人たちに、救いを知らない人たちに。

 

そのとき、今度はこのイエス様から豊かな油が溢れ流れていく、それが後半の油の調合になるわけです。イエス様の洗い・御言葉を受け、世に出ていく時、今度は恵み、祝福は私たちだけに留まるのではなく、さらにこのような人に、こんな場所に?と思うところにまで溢れ流れていくことが見えてくるのです。いのちが溢れ流れるのです。これは儀式ではない、神様の愛の約束なのです。

 

神様は祭司に注ぐ特別な油を作るよう命じます。まさに教会である幕屋に、イエス様に集まる人達に聖霊様の油・祝福が溢れ流れるように作り、それを祭司に注ぐのです。しかも祭司だけではなく、すべての器具に注ぐように、と。一部の人たちだけではない、すべての人へ聖霊様の油注がれるのです、すべての奉仕の業、あなたが行くところどこにおいても。

 

でもまず帰るのは、イエス様。この油はイエス様に繋がる中で溢れ流れるのです。なぜ?イエス様も公生涯の始めに洗礼を受け、油注ぎ・聖霊様を受けるのです。またイエス様、という名前の意味は油注がれたもの、という意味ですから、この方に聖霊様によって繋がらせていただく中で、油が、イエス様の各器官である私たちへと、また私たちの周りまで溢れ流れるのです。

 

私たちは世にあっては様々な問題があって、このイエス様の御言葉を疑って、この油に自分たちのとりあえず妥協しようか、この世に合わせるか、と変な水を混ぜることがあります。そうすればなんとかなるか、と。でもそれは乗り切るだけであって、本当の聖霊様の油、祝福は流れていきません。↑の最後で正しい調合、混ぜものをしてはいけない、とありますが、私たちはどうしても困難にある時は悩み、それこそサタンがエヴァを、本当に神様はそう言っているの?と疑わせてきたように、疑いの心をサタンは織り交ぜてくることもある。だからこそ私たちはしっかりと本当の水と油、イエス様の御言葉に洗い聖められ、聖霊様の油に満たされる事を願いたいものです。

 

神様が聖霊様の油・祝福を示したのは、ただ宗教行事を行うことを意味するのではなく、これが神様の願い、神様の究極の愛、御子イエス様を十字架にかけ死なせる、そして復活とともにこれを受け入れる人を新しくされ、本来私たちが罪人であった私たちを水と油が混ざらないように、神様の祝福に入れられないのではなく招き入れられた、その愛が示されています。私たちは神様と水と油の関係になるのではなく、むしろ地の塩、世の光として、神様の栄光を放つものへ、神様の祝福という油が溢れ流れていくことを銀半シェケル、祈りを持って、またあなたの器具、賜物をもって仕えるものでありたいものです。