「『…あなたが、雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く。あなたは、会見の天幕の入口で、主の前に、その雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。…』」
出エジプト記29章10-14節
ドラえもんの中で、ジャイアンの「俺のものは俺のもの。お前のものは俺のもの」という有名な言葉がありますが、実はのび太くんが小さい頃、なくしものをした際に、ジャイアンが友達としてお前のものは俺のもののようなものだから、そのつもりで探す、ということからはじまったそうです。神様も、あなたをご自分の子として大切に思っています。あなたをかけがえのない、高価で尊い存在としてみている、だからあなたに生きてほしい。失われてほしくない。私達は神様の命がけの愛、御子イエス様の命さえ惜しまないこの愛に生かされ、歩もうではありませんか。
さて、↑はモーセが神様に呼ばれ、シナイ山に登った際に神様に語られた言葉、この幕屋で仕える事になる祭司の任職のために捧げられるいけにえ、そして具体的な任職に当たる中身についてになります。非常に悩ましい話ですが、祭司は任職の際に生贄を捧げます。なんで人の任職のためにいけにえを捧げなければならないんだ、動物が可愛そうじゃないか、と今の時代だったら言われるかもしれません。↑をみてもあまりよくわからないですよね。
しかし、これはただの儀式としてとらえると、そんなことのために、となりますが、これは自らの神様への応答、献身を現します。そういう意味で私たちが、昨日見た祭司とされる、新しい命を歩む上でとても重要なことを神様は教えています。ただすればいいんでしょ?とかそういうレベルのものではなく、彼らの・私たちの心からの応答なのです。これを軽視したアロンの子が後に、大きな罪を犯した、私は祭司なんだから何をしても良い、と。その結果、彼は打たれます。
また、祭司と言うと話が遠く感じるかもしれませんが、もっと身近で見ると、人類初の殺人事件を起こしたカイン、被害者アベル。その発端となったのが、やはり捧げ物でした。ある時、2人は捧げ物を捧げに行くのですが、アベルは自分の持っている中の最上の生贄を捧げました。自分と神様の関係は適当なものではない、と。神様は、生贄の前に、「アベルと」その生贄を見て受け入れられた、と原文にはあります。神様は捧げるものの心を見ておられる。逆にカインは、捧げ物が問題だったのではなく、「彼の心」もみておられた神様は、これを受け取りませんでした。それを妬んだカインは、神様の説得、どうして受け取らなかったのかの説明を聞いても、その心を抑えることをせず、アベルを殺すという行為に至りました。
神様はてきとうではないのです。全力の愛を注ぎたい。だからカインを説得し、心を神様に立ち返らせ、生きた生贄、生きた命ある関係へと回復することを願ったのでした。ただ、彼はそれでも拒否し、最後はアダムファミリーから離れていったのですが。出ていけ、とは一言も神様入っていないのに。しかし、それでも神様は憐れまれ、彼に家族を与え、一族が形成されていきました。
話を戻し、今回は任職される者の罪が覆われる全焼の生贄について神様は語られています。中身を見ても非常にこの辺はややこしいです。任職のための生贄についてはかなり長く説明されています。それほどに神様はあなたといのちある関係を築きあげたい、招いておられるのです。
まず、生贄を捧げるために「雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く」とありますが、何だそれ?と思うでしょうが、早速重要な話が出てきます。これは、この生贄を捧げる者と生贄を同一視する、ということを意味します。つまり、生贄を捧げるということは、私はこの生贄と一緒です、ということです。
ですから、この牛が死ぬということは、私も神様の前に罪に死にます、ということを意味します。また、この生贄が受け入れられるということは私も神様の前にうけ入れられる、これによって罪が赦され、新しくされる、ということは私も新しくされる、ということになってくるわけです。
ただ、先程挙げさせていただいたアロンの子の罪、彼が子の行為を軽視した、侮辱したこと、カインが神様との関係を軽視した、生贄を捧げることをただの儀式としてみていた、それは神様の思いを軽視した、そこから発生している。そもそも生贄が初めて登場したのは、エデンの園に帰ります。アダムとエヴァが罪を犯し、エデンの園を追放される際、神様は動物をとり、その皮で彼らを覆った。もし神様が罪故に彼らを完全に見捨てるなら、そんなことはしなかったでしょう。神様はそれでも、彼らが、私たちが立ち返り、神様と命の関係を持つ事を何よりも願われていたのです。
よくよく考えてみたら、神様から始まったある意味での生贄、今回の提案も神様から発した事、神様は決して私たちとの関係を軽視しないからこそ、訴えるのです。私達自身軽視されていると思っているときもあるかもしれませんが、決してそんなことはないのです。同一とされる、ということは。
話を戻し、私の身代わりとして動物が屠られるなら、手を置いた人が屠られたとみなされる、罪を生贄に移し、かわりに裁かれ、命の交換が起こるということです。屠られた羊、今回は雄牛ですが、この死と私の死が交換され、命を得るのです、私たちは。神様のご愛ゆえに。
でもそれを捧げるかどうかは個々人に関わってくるわけですが、しかしもし私たちが私たちの罪を認める時、神様から離れ生きていた古いわたしを認め、イエス様が私の罪の身代わりに、十字架に屠られ、死なれた、ということを信じ受け入れるなら、その時、今度私達は生贄となられたイエス様によって私たちは義とされ、祭壇の土台にその血が注がれることによって、私たちの古い自分はイエス様によって覆われるのです。
血を滴り流すように、覆うように流すように、と言っていますが、古い自分が、それによって、イエス様の血によって、覆われて、新しい、イエス様が生きる命に変えられる、ということです。交換がここに起こるのです。イエス様の復活の命と、十字架の死によって命が交換されたということです。
それを捧げるということはこれを覚えることを意味します。イエス様がどれだけの苦しみを受けたのか、受けられてまで愛されたのか、ということを私達はこの祭壇を見るときに覚えることができるのと同時に、この交換された命は、父なる神様がご自分の御子イエス様を十字架にかけるほどに愛されている新しい命が私のうちにある、ということです。だから神様を悲しませることを避けるべきですし、同時にこの神様の命を頂いたのだから、古い私ではない私の中で神様とともに歩むという決断でもあるのです。
「雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない」とありますが、本来なら私たちはこれらのように宿営の外、神様の眼中にない、と言われてもおかしくない中でも、イエス様は十字架で屠られ、さらし者にされた。死刑囚として。そこまで神様はあなたを愛され、古いあなた、痛みも悲しみも、何より罪も全部身代わりに覆われ、交換され、あなたはイエス様の命がけの愛によって今覆われているのです。
このイエス様があなたを覆い、あなたの内に豊かに働かれます。神様が、命の交換をあなたに提案されたこのイエス様の前に私たちはどう歩むでしょうか。また交換し返すような歩みではなく、改めてイエス様のこの命がけの愛を覚え、イエス様の御心と1つとされ、歩もうではありませんか。イエス様のみ心が溢れ流れる、滴り流れるように広がることを切に願い。