ーどこから、何を、誰が満ち足らせて下さるのかー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「モーセはアロンに言った。『イスラエル人の全会衆に、『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから』と言いなさい。』アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。主はモーセに告げて仰せられた。『わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。【あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。】』それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、『これは何だろう』と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。『これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。主が命じられたことはこうです。【各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。】』そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。モーセは彼らに言った。『だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。』彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」

出エジプト記16章9-21節

 

私たちは衣食住、ある意味で満たされている。しかしこれらはどこから来ているのか。昔ながらの旦那さんだったら、俺の稼ぎで、なんて答えるでしょうが、そもそも、この地も、この地にあるものも、誰が造られたのか、神様です。その神様が作られた中、私たちは生かされている。満たされている。経済やら、自分の欲望やらを追い求める前に、私たちは神様を貪欲に求めようではありませんか。自分たちで得る以上の、計り知れない恵みをもって神様は応えてくださるから。

 

さて、↑は、ついにエジプトから、イスラエルの民が出エジプトを果たし、神様がモーセを通して紅海を割り、イスラエルの民は乾いた地を渡って先に進み、ファラオ率いるエジプト軍も同じように試みますが、彼らは海に沈んだ。その勝利をイスラエルの民は目の前にして、神様を賛美し、鼓舞するのですが、そのわずか3日後に飲水がない、と不平不満をいう。神様の偉大な奇跡を見ていながら、肝心な神様を求めず3日間歩き回っていた。結果、神様は1本の木を指し示し、神様の示されたことに従う中で、苦い水、どうにもならないものを、甘いもの、快いものへと変えてくださることを見ました。して今度は民は食べるものがない、と神様に求めるのではなく「不平不満を述べた」、それに対する神様の答えから↑は始まります。

 

さて、昨日の箇所で「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです」と、不平不満を行った民に対して神様は↑のように応えていきます。

 

昨日も分かち合いましたが、そもそもの話、彼らは少なくとも80年以上奴隷生活を送っています。レンガの材料からさえ集め、必要分を納品しなければならないのに、肉鍋の傍に座ってパンを満ち足りるまで食べていた?あり得ない。もし、それがあり得るとしたら、それは神様が彼らを満たしていた、だからこそそれが成り立つわけです。

 

ところが彼らはそれは妄想か、今の現状と比べれば、そんなようなものだった、と見ているのか、そういうのです。しかし、いずれにしても彼らを祝福し、守られていたのは神様です。神様はこの不平不満に対して、何を!では勝手にすれば良い、と突き放すのではなく、むしろモーセたちを通して「マナ」という不思議な食べ物を与えます。それは約束の地につくまで続くのですが、この話はそのマナ、という朝方取れる食べ物の話で有名ですが、実は彼らが望んでいた肉も神様は与えていたのです。荒野のどこから?神様からです。

 

私たちはあれが足りない、これが足りない、と、過不足について不平不満をいう。まあ、欲望から結局際限がないのですが。神様は私達の必要をすべてご存知なのです。つぶやきを聞かれた、というのはたまたまではない、神様がいつも私達に心、関心を向けているからこそ。たまたま聞こえてきた、というわけではない、神様はいつも私達を心配してくださっているのです。そして驚くべきことに、彼らの要求通り「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる」と伝えるように仰ります。

 

あれください、これください、はいいいよ、ということを神様は伝えたかったのではない。むしろ神様はいつも私達に気をかけ、覚え、必要を満たされることを知り、神様に立ち返る、神様にいつも従う、求めることを教えたかったのです。それは朝得たものからも分かります。彼らがこれはなんだろう、と全く知らない食べ物だったのです。お店とかで売っているようなパンが降ってきました、とか、その材料が落ちていて、それを調理して食べました、とかそういうものではなく、神様ご自身が私たちが思う以上の形を持って応えてくださるのです。彼らが願った以上の形を持って。

 

そうして、モーセは「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。主が命じられたことはこうです。【各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメル(大体2.3L)ずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。】」と民に伝えます。ちなみにはちみつのような味がするそうです。それを少ないと思うか、多いと思うか人それぞれですが、ただ言えることは↑を見るとそれぞれにとっては十分な量だったようです。食べる人、少食な人含め。ただ、朝まで残しておかないように言ったのにそれを破った人たちがいて、悪臭がし、虫が湧いた、と。

 

↑の出来事は、ただ単純に食べ物がもらえた、というレベルで終わらせてはいけない。新しい食べ物を与えられた、と終わらせてはいけない。神様は私達の必要を十分理解されている、それは彼らに十分目を配り、一人ひとりを知っているからこそ、十分な量が毎日与えられていったのです。ある時は、これは神様は応えてくれない、などと思ってはいけない。自分がほしい、必要だ、と思う以上に神様はあなたのことを知っている。それを十分あなたに満たせるよう用意されているのです。私達は神様に何を求めているだろうか。

 

神様は私達のために御子イエス様のいのちを惜しまず与え、救うほどに愛されているんです。十字架に御子イエス様を身代わりにかけ、死なせるほどに。そこまでしてまであなたを、このよの柵、思い煩い、罪、死、サタンの束縛から開放し、命を得てほしいのです。それほどの神様がどうしてあなたの必要をご存知ないはずがあるでしょうか。

 

今日あれがない、これがない、の前に私たちはこの神様に愛され、生かされている。この世のもの、私たちの考えを超えてあなたの内に御心を現したい、とその御手をいつも伸ばされている。私たちはこれを取りに行かなければ得る事はできない。神様のくださるものに悪臭させる前に、虫がわく前に喜び、受け取りに行こうではありませんか。