ーあとはあなたに委ねますー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」

ルカによる福音書23章46節

 

あなたがもし、最期の時を迎えるなら、何ということばを残すでしょうか?何を言うでしょうか。私も職業柄多くの人の最後の言葉を耳にしてきました。苦しみ悲しみながら終えていく人。感謝の涙を流しながら召されていく人。私の曽祖父(若くして両親を亡くし、生家は全焼、両眼失明)は、クリスチャンになったあと、天に召される前に最後まで神様を賛美していたと。なぜこれだけの違いがあるのか。それは全ては神様の御手にあるから。終わりのときだけではない、生まれる前から、今、そしてこれから、死して後まで。私たちはこの神様の御手に導かれながらいのちの道を歩ませていただこう。

 

さて、今日は今から約2000年ほど前に十字架にかかられ死なれた、私たちの主にも悲しみも、山芋、痛みも、何より罪を身代わりに背負われ十字架にかかられた事を覚える受難日。メル・ギブソンの映画、パッションでかなり詳しく触れられていましたね。ちなみにイエス様の十字架に釘を打った役(手)はメル・ギブソン本人だとか。これは他人事ではない、私が、私の罪故にイエス様を十字架にかけてしまったのだ、との告白でもあったようです。

 

そんなイエス様は十字架上で大きく分けて7つの言葉を語ります。↑は一番最後の部分ですが、これは実に大事なこと。ざっとその前の6つの言葉を紹介すると、罵る民衆たちに対し、恨み言ではなく「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、 自分でわからずにいるのです」と語られ、一緒に十字架にかけられた1人の死刑囚が悔い改め、せめて天国に行かれるときには私を思い出してください、と告白した時に「まことにあなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」と仰られました。さらに自分を育ててくれた養母マリアを見て自分の弟子ヨハネに「女の方、そこにあなたの息子がいます。そこに、あなたの母がいます」と語ります。自分の家族を預けるのと同時に、主にある家族なのだから互いに愛し合うことを教えます。

 

そして全地が暗くなると、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びます。いつも、神様を父、とよんでいたのに、もはや父と呼ぶことさえ赦されない状況になっていた。しかしそれでも、神様は私達を見捨てることをしなかったのです、イエス様ではなく。そしてイエス様もそれをわかっていてか、「わたしは渇く」と告白し、一人でも多くの人がか見さまのもとに立ち返ることに渇いておられ、この十字架に追いて救いの業が「完了した」と仰りました。

 

その後のことばが↑になります。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と。あれ?神から父に戻っているぞ?とよく見ている方は気づくかもしれませんが、十字架による救いが完成する、この十字架の前に悔い改め立ち返る人は神様の家族として迎え入れられる、罪赦され。そして、父、アバ・父と呼ぶこと(お父ちゃんというくらいの呼び方)が赦される関係へと迎え入れられるのです。

 

毎年受難日には様々な十字架の場面を見てきましたが、今年は一番最後のことばに焦点を当てたいのですが、私たちを導いてくださるのは神様なのです。罪人を救うため(犯罪を犯している人、という意味ではなく神様から離れている人、神様を神様としていない人、まあようするにみんなですね)に来られた。私たちは気づかないだけで神様は生まれる前から、生まれた後、そしてどんな順境の日も逆境の日も、あなたと手をつなぎ、導いてくださっているのです。無理やり首根っこをひっ捕まえて従わせている、というよりも、私達に命の実地をいつも指し示しながら。

 

私たちが当たり前と思っていることも全て神様は備えてくださっている。神様は最後、私たちを天の御国へと導きたいのです。死ではなく、いのちへと。イエス様は私たちの見本となられるため、罪を侵さない点を除いて全て人と同じようになられ来られた。だからイエス様は十字架にかかられ、罰せられて終わり、ではなく、そこから、死から引き上げる御手がある、神様の愛があることを示された。イエス様は、この点においても全ては神様に委ねる、神様のご意思を示しながら、私たちはそれでも、この魂を、私達自身を神様の御手に委ねる時、私達はイエス様と同じ後に復活へと導かれていくのです。

 

完了した、それならいいじゃないですか、でもこの言葉を最後に持ってきたのは、悔い改めたら終わり、あとは好きなように生きていい、というわけではなく、神様のこの愛の御手はあなたを死からいのちへと導かれる。死んでから委ねる、とかそういうものではなく、常に神様の御手はあなたとともにある、だからこそ、この御手にゆだね、導かれ、歩もうではないか、と訴えたのではないか。完了して終わり、ではない。信じて終わりではない、本来あるべき神様とのいのちの関係、お父ちゃんと呼ばせていただける豊かな関係に立ち返ろう、と訴えたのではないか。

 

私たちは、今こそこの十字架の愛を受けた今こそ、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と告白し、歩ませていただこう。あなたは1人ではない、あなたはこれほどまでに愛されたイエス様の命にかけて、神様が保証され、導かれる。世の終わりまで。今も、この先も。

 

ヨハネは福音書に最もイエス様の救いの根幹をこのように残しました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と。あなたはこの愛にどう応答するだろうか。永遠の命、神様が導かれるこの道を私たちは歩ませていただこう。神様は永遠のあなたとの関係を願い、御子イエス様を十字架にかけた。一時的ではない。私達も一時的ではなく、永遠に、神様の御手に委ね、導かれ、歩もうではありませんか。