ー力ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はモーセに仰せられた。『アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。』そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。そこで、呪法師たちはパロに、『これは神の指です』と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。」

出エジプト記8章16−19節

 

力、様々なものがある。暴力的な力はもってのほかですが、慰める力、聞く力、守る力…様々です。しかしこれをどのように用いるかによってとんでもない方向に行きます。また、誰が、どんな目的でそれを行使するかにもよります。神様はあなたのうちに御力を現される。それは支配するためではなくいのちを得させるため、あなたを守るためです。私たちは闇・罪・サタンの力に支配されてはいけない。いつもイエス様の愛に覆われ、歩もう。

 

さて、↑はいよいよ出エジプトに向かっていく、モーセとアロン対ファラオ・ラムセス2世の直接対決になります。前哨戦とも言うべきところでは、アロンの杖を蛇に変えてくださった神様が、受法したちが蛇を杖のように見せかけた、その蛇を飲み込み、勝利。その次は彼らが信奉する「物」の1つナイル川を血に染め、エジプト中を恐ろしい悪臭に包み込み、飲水もなくなるほどだった。↑はその次、ヘケト神と名付けるかえるを討ち、次の戦いに↑で入ります。

 

さて、ファラオは出エジプトを約束したのに、それを反故にしたため、神様はモーセに「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう」と命じます。なぜぶよなのか?これは非常に面白い話です。実は、カエルをヘケト神としてあがめていたように、彼らは肥沃な大地をも崇めていました。ちなみに、この大地はゲブという名前の神(物)だそうです。それを神様は、打つように命じたのです。

 

そして打って舞ったちりはぶよとなっていった、と。ちりぢりに巻かれ、本来彼らが信奉していた神なはずなのだから、どうしてエジプトの民を苦しめるのか、と普通に思うでしょうね。これはただ純粋にぶよによって痒くなったから何とかしてくれ、とかそういうレベルの話ではないのです。自分たちが頼りにしていた大地が返って自分たちを苦しめる、これほど辛いことはないでしょう。

 

そもそも、災いが続いていくわけですが、神様は別に罰を与える、と言うよりも神様に気付いてもらいたい、立ち返ってほしい、という理由があります。彼らを、私たちにいのちをもたらすのは、カエルやら何やらではない、この天地万物を作られた生ける神様、「物」ではない、この神様に立ち返ることを願って、一つ一つ、それらの「物」には力がないことを示すのです。

 

これが行われた一つの理由は、そもそも大地は神様が与えてくださったもの、この天地万物を作られ、人をそこに置かれた。罪をアダムたちが犯したあと、大地は呪われても、神様はそれでも彼らを見捨てず、作物が育つようにされた。そういえば、先の時代になりますが、北イスラエルをヤロブアム2世が治めていた頃、アッシリヤ帝国の首都ニネベに遣わされたヨナに一晩で神様はとうごまを映えさせたことがあります。そして、彼を強い日照りから守られた。一方で一晩でこれを枯らす、こともなされた。ようするに、神様はまさに、彼らを本当は養いたい、だから立ち返ることを願ったのではないだろうか。

 

話は戻し、こうして「アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった」わけです。呪法師も、これまでと同様に真似ようとしましたが、今回ばかりはできません。というよりも、カエルの時も話しましたが、これ以上ブヨを増やしてエジプトの民を苦しめてどうするの?という話です。

 

ファラオのご機嫌取りのためか、自分の力を誇示してもっと徴用してもらおうと考えたのか。しかしこれをできなかった。これまでは呪法師たちがすることを神様は見逃しつつも、結局勝利された。しかし、結局彼らは神様の真似事をしようとしても、なにか力ある技をしようとしても、神様あってできること。私たちもそうですよ?自らを誇って、これができる、あれができる、さあ私はすごいでしょう、なんていっても、それは神様が知恵、力を与えて初めてできること。自らに栄光を競うとすれば下手をすれば自らに返ってくる。

 

紀元1世紀のヘロデ王は12使徒の一人ヤコブを殺害した後、さらに自分を神格化しようとして、神様に討たれた、という経緯がありますが、私たちは神様から与えられたものによって初めて生きたものとなる。私たちがどんなにプライド、誇り、経験、自負によって身を固めようとも、↑で「人や獣、呪法師たち、パロ」にぶよがまとわりつき、彼らを苦しめ、彼らがまとっていた誇りに返って苦しめられることとなるのです。彼らは自分たちには力があると思っていた。しかし、結局それは彼らに力を与えなかった。

 

エジプト全土(イスラエルの住む土地は別)はこのブヨに覆われ、苦しめられていった。しかし、同じようにすることも、逆に追い出す力も、呪術師たちにはなかったのです。まねするどころか、追い出すことも。彼らは結局そうしたものに悩まされ、苦しみ、ついにはある意味では敗北宣言、「これは神の指です」とファラオに進言したのです。

 

神の指、それは「力、神様の力」という意味なのです。これは神様のご意思、御力に違いない、力に違いない、この前に流石に彼らは何もできない、とファラオに言うのです。そう、私たちは神様の力の前にはひれ伏すしかない。いい意味でも悪い意味でも。良い意味では、私達自身神様の前に悔い改める、へりくだる中、弱さのうちに神様が完全に働かれ、神様ご自身のみ力が私達を覆う。どんな問題もこれらは振り払われ、追い出されるのです。

 

逆に、もし私たちが神様に敵対しようとするなら何もできない。そして神様が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 

神様の願いは、御子を信じる人が一人として滅びることなく永遠の命を得ることです。神様は最後のわざわざいの時まで何度も何度も彼らに立ち返る機会を与えた。呪術師さえ。彼らは神様の力の前にへりくだるしかないことを知った。その後どうするかは彼ら次第ですが、神様に立ち返るなら、彼らが恐れていたファラオも、誇りも、欲望も、払われ、神様の大いなる恵みが彼らを覆ったことでしょう。実際はどうだったかは書いていないので分かりませんが。

 

それでもファラオは神様の力と知りながらも、神様を認めなかった。自分の権力にしがみつくか、自分の信奉する神にすがりつこうとしていたのでしょう。しかし、神様の愛は、力は、私たちを罪から救うため、私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。途中で裏切られても、椿を架けられても、罵られても、天に連れ返すことはできてもしなかった。むしろあなたへの愛を最後まで貫き通した。このイエス様の救いを受け取るとき、私たちはこの復活のイエス様の恵みが覆うのです。これに勝るものはない。

 

私たちは神様を侮ることをやめ、神様の前にへりくだろう。どんなにあなたの前に敵対する問題、苦しみがあろうともイエス様がこれらを変えてくださる。死から命へ、神様の偉大さを示された、この神様に。私たちは神様が見えないから不安になる必要はない。私達が見えないなかないっても今日も神様はは足らかれている。私たちはこの神様の御力に信頼し、歩もう。