ー目に見えるものにとらわれないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「モーセは答えて申し上げた。『ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。【主はあなたに現われなかった】と言うでしょうから。』主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か。』彼は答えた。『杖です。』すると仰せられた。『それを地に投げよ。』彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はまた、モーセに仰せられた。『手を伸ばして、その尾をつかめ。』彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。『これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。』主はなおまた、彼に仰せられた。『手をふところに入れよ。』彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。また、主は仰せられた。『あなたの手をもう一度ふところに入れよ。』そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。『たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。』」

出エジプト記4章1−9節

 

サンテク・ジュベリー、星の王子さまで有名ですが、たくさんの著書を出していますね。彼は本当に大切なものは目に見えない、と語っている。目に見えるものだけにとらわれると本質を見失ってしまう恐れがあります。その背後で何が動いているのか、働いているのか、これを見落としては頭を悩まし、目の前の問題の本質を見逃しかねないのです。見えるから安心、見えたものを信じる、のではなく、すべ治め勝利へと導かれる神様に私たちは信頼し、歩もう。

 

さて、↑はかつてヨセフというイスラエル人が神様の助けによってられて40年。しかしこの間それをを知らない王朝ラムセスによってイスラエルは支配されます。40歳になったモーセはイスラエル人が虐げられているのを見て我慢できず、そのエジプト人を殺め、見つかり恐れ、逃げ出し、ミデヤンの地に住み着き家族を得40年。そんなある日、神様は燃え尽きない不思議な柴に招かれ、モーセに語りかけられた。前の章では、あるという神様、あって有り続ける神様が民の痛みに心を留め、下ってこられ、救わんとしていること、そしてモーセに彼らを連れ出すように、神様が守られるから、とモーセに語られました。↑はその続きになります。

 

普通、神様が助けてくださる、救ってくださる、と言われたら大喜びでしょう。しかし、モーセはこう答えます。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった』と言うでしょうから」と。これはモーセが嫌がってのことというよりも、イスラエルの民の現実です。というのも、彼が王宮でイスラエル人が虐げられているのを見て、助けようとし、それを殺めた後、今度はイスラエル人同士がいざこざを起こしているのを見て、彼らはこうモーセに言ったのでした。「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と。

 

彼らを虐げるエジプト人を討ったモーセをそのように何故言うのか、と不思議に思うところですが、彼らからしたら、どうせ王宮育ちのぼっちゃんだろう?とか、現実は変わらない、とか思ったのでしょう。そんなお前になぜとやかく言われなければいけない、と。そんなお前になんか神様が現れるはずがないじゃないか、この現実を見てみろよ、と彼らは答える、そうモーセは考えたのです。じゃあどうして神様は今まで助けてくれなかったのか、と。

 

これは他人事ではないんです。あのときどうして神様は助けてくれなかったのか?どうせ何もしてくれないんでしょう?してくれるなら証拠を見せてよ、と私たちは考えやすい。目に見えることに囚われすぎて、その背後に神様がどれだけ守られ、祝福されてきたのか、彼らがファラオでさえ恐れるほどにまで強大になったのはまさに神様の恵みそのものだった、しかし、彼らが求めるのは目に見える結果。私たちはそんなふうに、どうせ神様は…と嘆いていませんか?

 

しかしそれなら勝手にすればいい、という神様ではなかった。心に留めておられる神様は、ただ心配されるだけではなく行動に起こされる神様なのです。神様はモーセに何を持っているのか、と聴きます。彼は杖、と答えます。この杖を通して「神様が」奇跡を、勝利を繰り広げられていくのですが、じゃあその杖は何なのか。それは、ただの羊飼いの杖です。そんな者、何に役に立つのか?と思うかもしれない。目に見えるものはなんでもない、ただの杖。

 

しかし、ファラオのもとから逃れ40年、彼を羊飼いとして養い育ててきた、神様がその杖とともに導いてこられた証なのです。ただの杖、しかし、杖を持って神様はモーセを助けてこられ、導いてこられた。この杖があるではないか、というのです。ただの羊飼いの杖、しかし神様が今日までその杖を持ってモーセを導いてこられた。あってあり続ける神様は、これからも変わらないのです。

 

これを地に投げると蛇に変わり、その尾を掴むと元の杖に戻りました。まあ、エジプトの呪術師がのちの章で真似るのですが、モーセの杖が蛇になったことで飲み込みます。どんなに小さなものであろうとも、そこに神様が働かれるなら、ただの杖であろうと、それは神様の御業の現されるものとなるのです。それはこれからたくさん奇跡を起こされていきますが、それをするのは神様なのです。目に見えるもの、状況、自分の現状、これをただの○○にすぎない、と思ってはいけない。あなたには神様がともにおられる、導こうとされていることを忘れてはいけない。どんなに世の中が私たちの心を脅かそうとも、神様はそれらを飲み込み勝利させてくださる。

 

さらには、モーセに、懐に手を入れるように言うと彼の手はツァラアト(重い皮膚病)のようになり、もう一度すると戻った。ツァラアトは当時、罪の象徴として見ていたのですが、これらを癒やされる、神様の御業を忘れた、神様の愛を忘れた彼らを神様はそれでも、その傷を、痛みを、罪を、癒されるのです。そして彼らを支配するもの、当時のイスラエル人で言えばファラオ、彼の国の象徴、ナイル川を血に変えてくださる。ファラオが崇め、またこれによってイスラエルを支配していた物を神様が血、死へと変えられる。神様はそうして私たちを支配するものから解き放ってくださるのです。目に見えるものに縛られた私たちを。本当の生ける神様、主の御元に招かれるのです。

 

私たちは現実に目を奪われるのではなく、神様を見上げよう。神様はあなたを愛されている。あなたのためなら、あなたを救うためなら行動に起こされる。神様にできないことは罪を犯すことくらい。それ以外なら、遣わした御子イエス様がどんなに罵られようと、裏切られようと、十字架にかけられようと、あなたを救うために、血の涙を流してでも、十字架から降ろすことができたのにそれをせず、私たちを目に見える罪、目に見えない、神様から離れている私たちを救う、暗闇から救い出すために、身代わりに死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちがこのイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る時、すべての罪は赦され、神様のことされ、受け入れられる。

 

もう私たちは世の奴隷、目に見える諸問題、現状に支配されることなく解き放たれ、自由とされたのです。私たちはいつまで目に見える現実に支配され続けるのか。今こそ、私たちはこのイエス様の命にあって救われた、それほどの愛を受けた神様が私たちの目に見えるすべてを変えてくださる、この確信に立って歩もうではありませんか。