「ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である。金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。」
伝道者の書5章8−12節
見てるだけ〜というCMが昔あったのを覚えている方は、多分私とそんなに年の差はなさそうですが、ショッピングならいいんです。しかし、神様はあなたの隣人を愛しなさい、とも仰られている。それは、ただのりんじんだけではない、困っている人、そうした人を黙ってみていることを良しとしない旨が律法の中に記されている。神様は、した罪だけではなく、すべきことをしないこともまた罪と見ておられる。罪罪言うと敬遠されそうですが、しかし、もしこれを神様に祈る、黙っていないで祈りの声を挙げるなら、神様の御心が現されるのではないか。私達は見ているだけ、ではなく神様の御心を、素晴らしい栄光を仰ぎ見させていただけるものであろう。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンが残した書簡の5章になります。ソロモンは聖書にあまり触れたことがない人でも名前を知るほど有名、知恵、名声、富…彼は神様に従っているうちは知恵とともに多くの富を与えられていた。
色んな本を見ていると、ユダヤ人と富豪的な本が結構出回っていますが、なぜ彼らは祝福されているのか。それは神様が、彼らを祝福することで、その祝福をさらに周りに溢れさせるためにある。律法も実はそのへんに向いていて、バリアフリー的なものもあったりします。彼らはその富を持って困っている人を助ける、それこそ神様の御心だった。律法はただの宗教書ではない、聖書はただの宗教書ではない、全てはある意味では神様を愛すること、そして自分自身を愛するように隣人(苦手な人も含め)を愛する、この3つの愛に集約されるのです。
なぜこんな話を始めたかと言いますと、↑で「ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない」という部分を読んで、それが当たり前、仕方がないこと、と外から見ているように見えたから、というのもあります。ソロモンは王ですよ?富もあったんですよ?自分の宮殿を建てるために奴隷を徴用する、そんなことをしている場合ではない。貧しいものが虐げられているなら、王として、驚いてはならない、ではなく、それをどうにかすべきではないだろうか。
いじめの原理もそうですよね。最近某ドラマで、いじめている側はある意味で病気なんだ、彼らにカウンセリングが必要なんだ、といいますが、もっと根本的な部分があるのではないか。私達は仕方がない、この現状はこういうところだから仕方がないんだ、とどうも諦める傾向がある。驚いてはならない、ではなく、だからこそ、わたし達は置かれた場所で、遣わされた場所でなにか出来ないか、祈るべきではないだろうか。
ある所で働いていたとき、私が牧師と知ると、悩み相談に来ることもあった、仕事中だから、時間がないから、と断ることなく話を聞き、カウンセリングに近いことをした。それが正しいかどうか、仕事的にはどうかとも思いますが、その人の悩みが改善されれば仕事も、周りの雰囲気もよくなることだってあります。
権利と正義がかすめられている、それはある意味ではそのいる場所のルールでそうなることもあるでしょう。しかし、だからといって私たちも同じである必要はない。むしろ私たちこそ、権利と正義がかすめられないよう、神様に祈り、また言っているソロモンも神様のうちにこそ知恵がある事を知っているのだから、何をすべきか、どう国を治めるべきかどうか祈り求める必要があったのではないか。神様の正義が、義がなることを祈るべきではなかったのではないか。神様は黙っている神様ではない、あなたの祈りに答えてくださる方なのですから。私達もこの事を覚えていたいですね。
ソロモンは続けて「その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である」と語りますが、私たちを正しく収める方は、私たちの上司を超えて神様であることを忘れてはいけない。神様は耕してくださる。だからこそ私達は神様に委ねて良いのです。
パウロという人はこのようにその手紙に書き残しています。「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」と。ちなみに奴隷は現代に当てはめるなら、雇われ人、主人は雇い人と考えればわかりやすい。
いずれも神様の御心を求める、その中に神様の栄光、御心、報いが表されることを語られています。雇い人もまた辛く当たるのではなく、むしろ差別されない神様に知恵を求め、心から神様の御心がなること、耕されることを祈り願う、その中にそこに神様からの報い、栄光が現されるのです。
また、金銭の問題に触れていますが、やはり彼の手紙の中でこのように触れられています。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』…『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう』」と。神様の蔵にはおさめきれないほど豊かな富があります。神様は決して私達を捨てることはなさらないし、助け手なる神様が、私たちを助けてくださる。
だからこそ、惜しむことなく与える神様に私達は求めよう。お金がなければ…仕方ない…ではなく、神様に求めよう。神様の蔵にあるのは金銭ではない、私たちに必要な全てです。イエス様の12弟子の一人ヨハネはこのように福音書に書き残します。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」と。神様に求めて良いのです。神様が私達の内に喜びが満ち満ちたものとしてくださるのです。
神様は私達を見ているだけ、ではなく、惜しむことなく御子イエス様を遣わされた。神様であられるのに人間として生まれさせ、苦しみの時代の中にあっても同じ重荷を背負わせ歩ませてくださった。そして最後は私達の罪の身代わりに十字架に架かられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に罪悔い改め立ち返るすべての人の罪を許し、神様の子としてくださるのです。その特権が与えられるのです。
私達はこの愛を受けた今、何を求め、何をするだろうか。見ているだけ、仕方ないよ、を卒業し、神様に他血帰り、神様の御心を求め、また実行、従うものであろう。神様は惜しむことなくあ耐え、また助け、神様の最高の報いを名されるから、私達は金銭を超えた、神様の御心を求め続けようではありませんか。