今の時代、暗く、どんなに立ち上がろうとしてもまた落とされ、の繰り返しをここ2年ほど体験してこられたのではないだろうか。人によっては奈落の底に突き落とされたように。
神は何をしているんだ?と思う人もいるでしょう。
そんな中で、なかなか興味深い記事を見ました。
↓はジョン・ストットという方が体験し、書いたものです。よければ参考になれば。
アジア諸国で私(ジョン・ストット)はいくつもの仏教寺院を訪ねた。寺院の中で、私はかしこまって仏像の前に立つ。手と足を組み、目を閉じて、口元にかすかな笑みを浮かべている仏像。超然と、心ここにあらずといった顔つきの彼らを見つめるたびに、いてもたってもいられない気持ちに迫られ、私は急ぎ足でその場を立ち去る。
すると仏像の代わりに、十字架の上で寂しく、痛みに身悶えながら拷問に耐える人の様子が、釘で刺さったその手足が、傷だらけの背中が、見る影もなくなったその体が、いばらの冠で血だらけになった眉が、からからに乾いた口とどうしようもない喉の渇きのイメージが浮かび上がり、『神に捨てられた奈落の底』の暗黒が広がっていく。
ああ。これこそが私のための神ではないか!苦悩や痛みとは関係ないはずのその人が、神としての特権を投げ捨て、血の通う人間としてこの世界に生まれた。涙や死を知る人間として生まれた。彼は私たちのために苦しんだのだ。人間の苦悩に関する疑問はいまだに歴然とある。しかしその疑問符の上に、我々は新たなる刻印を、神の苦悩を象徴する十字架という刻印をしっかりと押す。『キリストの十字架は・・・我々が住む今日の世界で通用する、神の唯一の自己弁護に他ならない。』
ージョン・ストットー
